「軽率な抽象化」がもたらす後ろめたさと創造性の間で煩悶する
ここ最近の悶々思考迷路。一定の答えはあるが、「致し方ない」という類の答え。
日常的に使う言葉で、恐ろしいもの、悲惨なもの、人に苦しみを与えるもの、これらの事象や状態を現すワードを抽象化して、ライトな意味に転用する行為がよく見受けられる。
例えば、「地雷」を転用して「地雷を踏む」、「テロ」を転用して「飯テロ」、「難民」を転用して「昼食難民」、ドラッグを使う言葉を転用して「スタバをキメる」、などなど。
本来的な意味ではなく、その性質が持っている要素を抽象化して別の表現に活用するアプローチ。これらの行為を「軽率な抽象化」と表現しようと思う。
それこそ、これらの事象の当事者でないから、自分とは距離のあるものだと認識できてしまっているから、こういう軽率な抽象化ができるのだと感じる。
実感がないからこそ、上辺だけを見ているからこそ、バーチャルな世界で起こっていることだと捉えているからこそ軽率な抽象化ができてしまう。そのテーマが自分に近づいたとき、まさに当事者や関係者であったとき、このような表現は使えなくなるのではないか。
一方で、単にこれらの行為を糾弾したいわけではなく「軽率な抽象化」を一種の思考特性として捉えたときに、それが持つクリエイティビティについても意味があるとは感じている。
ある種のアナロジー思考。これを「軽率に」できてしまうことは思考が非常に広がりやすくなる。もちろんそのテーマの大切な要素が抜け落ちたカタチでの転用をしてしまうこともありマイナス面に出ることも大いにあるが、しかし広がりという意味での効果は大きい。
そもそも「軽率さ」が存在できるということは、この思考が常時駆動することになる。つまり、軽率さを自分の中で駆動させ続けることが自分の発想力の源泉にもなっているということ。常時駆動することで鍛えられる。鍛えられてしまう。
この、「軽率な抽象化」を持つことによる、無分別な思考アプローチを抱いてしまうことへの後ろめたさと、同時に存在する創造性との間で自分は悶えている。
それこそ、軽率さにより伝え方や発想が豊かになってしまったという実感を持ってしまっている。自分自身に対してその思考を縛ることで、自分自身の表現が狭まってしまったと感じてしまった。感じてしまったことへの後ろめたさが同時に駆動する。
「こういうときは軽率な抽象化をしないように注意しよう!」なんて風に思考を加減することは果たして可能なのだろうか。これはバランス問題や程度問題なのだろうか。そのコントロールって難しいんじゃないだろうか。という点がいまの自分の悶々ポイント。
思いついたことを口に出さなければそれは軽率な抽象化をしていないのと同じだとは理性的に理解できているものの、軽率な抽象化を思いついてしまった瞬間に後ろめたさが起こる。一種の自己嫌悪と言っていい。そういう風に思考が駆動してしまう。でも、この思考が自分の良い部分を作ってもいる。それは間違いない。
なんとなく、この思考エンジンは駆動させるか止めるかな気がしてしまっている。訓練である程度操れるようになるのかもしれないけど、分からない。
バランスを取るということがない。そうなると、この思考エンジンを駆動させつつ後ろめたさが発生することを甘受するという、一種の受け容れしかないのかもしれない。
「言葉にしてないんだから別にいいじゃないか」と、自分で思うことができないのなら、もうその後ろめたさは飲み込む以外にない。そんなことを考える。
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