前章「三花一瓶(さんくわいつぺい)」へ (一) 桃園へ行つてみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇つて来て、園内の中央に、もう祭壇を作つてゐた。 壇の四方には、笹竹を建て、清縄(セイジヤウ)を繞(めぐ)らして金紙銀箋の華をつらね、土製の白馬を贄(いけにへ)にして天を祭り、烏牛を屠つた事にして、地神を祠(まつ)つた。 「やあ、おはやう」 劉備が声をかけると、 「おゝ、お目ざめか」 張飛、関羽は、振向いた。 「見事に祭壇が出来ましたなあ。寝る間はなかつたでせう」
前章「童学草舎」へ (一) 母と子は、仕事の庭に、けふも他念なく、蓆機(むしろばた)に向つて、蓆を織つてゐた。 がたん…… ことん がたん 水車の回るやうな単調な音が繰返されてゐた。 だが、その音にも、けふは何となく活気があり、歓喜の譜があつた。 黙々、仕事に精出してはゐるが、母の胸にも、劉備の心にも、今日此頃の大地のやうに、希望の芽が生々と息づいてゐた。 ゆふべ。 劉備は、城内の市から帰つて来ると、まつ先に、二つの吉事を告げた。 一人の良き友
前章「橋畔風談(けうはんふうだん)」へ (一) 城壁の望楼で、今し方、鼓(コ)が鳴つた。 市は宵の燈(ひ)となった。 張飛は一度、市(いち)の辻へ帰つた。そして昼間展(ひろ)げてゐた猪(ゐのこ)の露店をしまひ、猪の股や肉切庖丁などを苞(つと)に括(くく)つて持つと又馳出した。 「やあ、遅かつたか」 城内の街から城外へ通じるそこの関門は、もう閉まつてゐた。 「おうい。開けてくれつ」 張飛は、望楼を仰いで、駄々つ子のやうに呶鳴(どな)つた。 関門の傍(かたはら)
前章「桑の家」へ (一) 蟠桃河の水は紅くなつた。両岸の桃園は紅霞を曳(ひ)き、夜は眉のやうな月が香つた。 けれど、その水にも、詩を詠人を乗せた一艘の舟もないし、杖をひいて逍遙する雅人の影もなかつた。 「おつ母さん、行つて来ますよ」 「ああ、行つておいで」 「何か城内からお美味(いし)い物でも買つて来ませうかね」 劉備は、家を出た。 沓(くつ)や蓆(むしろ)をだいぶ納めてある城内の問屋へ行つて、価(あたひ)を取つて来る日だつた。 午(ひる)から出ても、用達(よう
前章「張飛卒」へ (一) 涿県の楼桑村は、戸数二、三百の小駅であつたが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場で驢を繫ぐので、酒を売る旗亭もあれば、胡弓を弾(ひ)く鄙(ひな)びた妓(をんな)などもゐて、相当に賑はつてゐた。 この地は又、太守劉焉の領内で、校尉鄒靖といふ代官が役所をおいて支配してゐたが、何分、近年の物情騒然たる黄匪の跳梁に脅やかされてゐるので、楼桑村も例に洩れず、夕方になると明るいうちから村端(はづ)れの城門をかたく閉めて、旅人も居
前章「白芙蓉」へ (一) 白馬は疎林の細道を西北へ向つて驀(まつ)しぐらに駆けて行つた。秋風に舞ふ木の葉は、鞍上の劉備と芙蓉の影を、征箭(せいや)のようにかすめた。 やがて曠(ひろ)い野に出た。 野に出ても、二人の身を猶(なほ)、箭(や)うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭い鏃(やじり)を持つた鉄弓の矢であった。 「オ。あれへ行くぞ」 「女を騎(の)せて——」 「では違ふのか」 「いや、やはり劉備だ」 「どつちでもいゝ。逃がすな。女も逃がすな」 賊
前章「流行る童歌」へ (一) それは約五十名ほどの賊の小隊であつた。中に驢に乗つてゐる二、三の賊将が鉄鞭を指して、何か云つてゐたやうに見えたが、軈(やが)て、馬元義の姿を見かけたか、寺のはうへ向つて、一散に近づいてきた。 「やあ、李朱氾。遅かつたぢやないか」 此方(こなた)の馬元義も、石段から伸び上つていふと、 「おう大方、これにゐたか」 と、李と呼ばれた男も、その他の仲間も、続いて驢の鞍から降りながら、 「峠の孔子廟で待つてゐるといふから、あれへ行つた所、姿が見
前章「黄巾賊」へ (一) 驢は、北へ向いて歩いた。 鞍上の馬元義は、時々、南を振り向いて、 「奴等はまだ追ひついて来ないが何(ど)うしたのだらう」 と、呟(つぶや)いた。 彼の半月槍を担いで、驢の後から尾(つ)いてゆく手下の甘洪は 「どこかで道を取つ違へたのかも知れませんぜ。いずれ冀州(河北省保定の南方)へ行けば落ち会ひませうが」 と、云つた。 いづれ賊の仲間のことを云つているのであらう——と劉備は察した。とすれば、自分が遁(のが)れて来た黄河の水村を襲つた彼
目次 黄巾賊(24.08.25公開) 流行る童歌(24.08.29公開) 白芙蓉(24.09.07公開) 張飛卒(24.09.13公開) 桑の家(24.09.16公開) 橋畔風談(24.09.30公開) 童学草舎(24.09.30公開) 三花一瓶(24.10.11公開) 義盟(24.10.18公開) 転戦 檻車 秋風陣 十常侍 打風乱柳 岳南の佳人 故園 次巻「群星の巻」へ ターミナルページへ
(一) 後漢の建寧元年の頃。 今から約七百七十年ほど前の事である。 一人の旅人があつた。 腰に、一剣を佩いてゐるほか、身なりは至つて見すぼらしいが、眉は秀で、唇(くち)は紅く、とりわけ聡明さうな眸(ひとみ)や、豊な頰をしてゐて、常にどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかつた。 年の頃は二十四、五。 草むらの中に、ぽつねんと坐つて、膝をかゝへ込んでゐた。 悠久と水は行く—— 微風は爽やかに鬢をなでる。 涼秋の八月だ。 そしてそこは、黄河の畔の——黄
2023年8月25日以来、メールマガジンサービスSubstackを使って吉川英治『三国志』新聞連載版を当時の掲載年月日にあわせて配信しています(掲載当時の進行を追体験する目的です)。 Substackは無料版だと、過去記事を1年までしか遡れません。ですから2024年8月25日以降、順次古いものが読めなくなります。 そこで、Substackで読めなくなった分を順次noteで公開してゆくことにします。 具体的にはこのページをターミナルとし、過去掲載分へのリンクを順次貼ってゆ
もりすずなさんの上記のツイートに触発されて、少しメモ。 もりさんの引用される「伯楽相馬経」は、その名の通り、「伯楽」の著ということになっています。相馬の達人としての伯楽の名は、『荀子』『荘子』『列子』などの先秦諸子に見え、『列子』は秦穆公(在位前659-前621)に仕えた、としています。これをそのまま信じるのであれば、紀元前7世紀に生きていたことになります。 その伯楽の著とされる、「伯楽相馬経」に「赤兎」を名馬と示唆する記述があるわけですから、これは『三国志』呂布伝の赤兎
「新解釈・三國志」感想その3。これで一区切りのつもりです。 今回はやや「メタ」な視点から。 三国志オタクとしての履歴が40年に達しようとしている筆者のような人間にとって、ここ10年の日本における三国志コンテンツの有り様は(かつての盛況を知っているからこそ)寂寥たるものです。冷徹に言えば、(日本に限れば)コンテンツとしての三国志は死に絶えようとしているのかも知れない。 しかし、三国志の愛好者としてその状況は耐え難い。そんな中で「新解釈・三國志」の出来は、この上ない福音でし
「新解釈・三國志」感想その2です。 この映画を特徴づける要素として「人が死なない」ことが挙げられます。 三国志の物語は人が死にます。嫌になるほど死にます。戦乱の時代を扱った歴史劇である以上、致し方ないとは言えますが、「実写化」の大きな壁には違いありません。 アニメ・マンガ等であれば、かなり直接的な描写であっても、何故か非難される度合いが薄いような気がするのですが(「鬼滅の刃」とか)、実写はまあ厳しい。三国志関聯でいえば、昨年公開された「影 SHADOW(邦題「SHADO
ネット上が「三国志ファン」による批判であふれかえる前に感想を書き始めようと思います。たぶん、何回かにわけます。 ひとえに「この映画を『殺す』のは三国志にとっての損失だ」と思うからです。 私は福田監督はじめスタッフの三国志への思いがどんなものかは知りません。しかし、十分に、これまでの三国志遺産へのリスペクトはあったと思います。その話から始めてみましょう。 長坂坡の場面。ナレーションでは糜夫人を「正室」と紹介しています(語そのものはうろ覚え)。『三国志演義』では糜氏と甘氏を
はじめまして。竹内真彦と申します。 三国志の研究をしております。本年9月に『最強の男:三国志を知るために』を上梓いたしました。 noteでは、これまで発表してきた論文のリライトや新規の論考などを主に展開してゆきたいと思っております。 裏のテーマとしては、「学術雑誌・書籍中心のメディアに拠らない人文学研究は成立するのか」ということを設定しています。 私的な思いにはなりますが、人文学の研究というのは「読まれてナンボ」です。シビアに言ってしまえば、如何に秀れていようと、読者