メモ 日露戦争における日本軍の戦略と通信インフラの関係
戦争において情報の優越が重要であることは古くから議論されていることですが、具体的にそれを獲得する方法は通信システムの機能や構造に左右されます。19世紀後半に電信の技術が確立されると、それは新しい通信インフラとして世界的に普及することになり、戦略的な目標ともなりました。日露戦争はその影響が表れている事例の一つです。
1904年2月に勃発した日露戦争で日本はロシアに対する奇襲を加え、その兵力を韓国から満州に迅速に展開させましたが、その際に敵の情報組織を妨害する目的で通信インフラの破壊を行っています。
1904年2月4日、陸海軍首脳部は会議で陸軍が戦時編制に移行するための動員令を発するタイミングで、海軍が最初の一撃をロシア艦隊に加える方針を決定し、その前に予定した箇所において電線を切断すると決定しました。同日に大山巌参謀総長の命令に基づき、まず北京とキャフタとの間に設置されていた電線を八達嶺付近で破壊する命令を下達し、翌5日には営口と旅順とを結ぶ通信線の切断も命じています(有山『情報覇権と帝国日本』3巻、301頁)。
旅順から芝罘までの電線はロシアを不必要に警戒させないために、またロシアの動向を探る上で価値があったために残しておきましたが、開戦後の2月12日からは不通にしました(同上)。韓国の電線については、2月5日から黄海に面する義州の電信を不通にし、日本海に面する元山の電信も6日から不通にしました(同上、302頁)。
長崎からウラジオストクまでの海底電線も2月9日以降に2条とも不通になっていますが、こちらの原因が日本の破壊工作であったことを裏付ける資料は得られていません(同上、303頁)。しかし、ロシア軍が日本軍の通信を妨害するのであれば、遮断すべきは釜山と津島の海底電線となるはずなので、日本による破壊工作の一環だったのではないかと推測できます。
日本はロシアの通信を阻害すると同時に、自国の通信を確保することにも注意しています。宣戦を実施する前の2月8日には韓国の仁川に第12師団を上陸させ、漢城を占領していますが、この占領で釜山から首都の漢城までの電信線を確保することに成功しています(同上、306頁)。当時、釜山と対馬の電信局は海底電線で接続されていたので、この行動により日本は韓国の既存の通信インフラに対する支配を確立し、作戦上の通信需要を満たせるように電信線の拡張工事を実施できるようになりました。2月21日までにこの工事は完了しており、前もって資材、器材を周到に準備していたことがうかがわれます(同上、309頁)。
現在ではインターネットの物理的インフラとして海底ケーブルの保護が問題となっていますが、1904年の日露戦争ですでに長距離通信の軍事的意義が認識され、戦略上の意思決定にも反映されていたことは忘れてはならないと思います。普段、私たちが何気なく使っている通信機器も、すべて物理的なインフラを基盤としており、それを軍事的観点から保護することは国家安全保障の一部です。
参考文献
有山輝雄『情報覇権と帝国日本』全3巻、吉川弘文館、2013年