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日中戦争で中国が仕掛けた交通基盤の破壊工作にどのような効果があったか?

日中戦争(1937~1945)中国共産党を率いた毛沢東は、日本軍の脅威に対して遊撃戦として知られる戦略を採用しました。中国国民党を率いた蒋介石もアメリカの援助を受けながら、1938年以降に日本軍の後方攪乱を目的とした遊撃戦を遂行しましたが、毛沢東が指導した遊撃戦の特徴として交通基盤の徹底した破壊が挙げられます。

例えば、谷間の隘路があれば、その入口を封鎖し、時間がゆる場合は稜線に沿って樹木を植え、そこから谷間を見下ろして日本軍を奇襲することができるようにします(菊池『中国抗日軍事史』257頁)。また河川があれば、多くの溝渠を掘って人為的に水路を増やしておき、それによって機動を妨げることができます(同上)。

一般に遊撃戦は小規模な部隊が大規模な部隊に対して遂行するものであるため、敵に捕捉されないように迅速に離脱することが重要です。したがって、遊撃戦では視界が広く、また敵の大規模部隊が縦横無尽に機動できる平地よりも、視界が狭く、大規模部隊が動きにくい山地の方が適しているといえます。

しかし、毛沢東の遊撃戦では、平地でも部隊の機動を妨げる方法として、周囲の水田を深く耕し、排水を妨げることで、地域全体を泥濘化させる破壊工作を実施させていました(同上)。すべての大通りには一定の深さの溝を掘らせて、日本軍の車両がその路上を移動できないようにもしていました(同上、258頁)。こうした破壊工作を遂行したのは村単位で組織された破路突撃隊であり、彼らは鉄道と道路の破壊成果を相互に競争していました(同上)。当時、中国大陸で日本陸軍の下級士官として中国共産党に対する作戦に参加していた藤原彰の回顧録の中では、交通基盤に対する破壊工作の効果について興味深い記述を見出すことができます。

支那駐屯歩兵第3連隊第1大隊第3中隊の中隊長だった彼は、1944年5月に大陸打通作戦として有名な一号作戦の一部である湘桂作戦に参加しています。5月28日に桂口市に到着した連隊は、すぐに道路構築の任務を与えられ、5月31日ごろから通白、平江の自動車道の補修工事を開始しましたが、現地の状況について藤原は次のように書き記しています(藤原『中国戦線従軍記』105頁)。

「自動車道路といっても、この地域は何回も日本軍の進攻作戦にさらされており、道路は中国軍によって徹底的に破壊されていた。図上に記号はあるものの、まったく原型を留めていない個所が多く、道路そのものが水田に化してしまった部分もあった。山地が多いのにくわえて、平地の部分は水田と湿地で、いったん雨が降れば流れはたちまち氾濫して道路はぬかるみと化し、どうやって自動車を通すのか途方に暮れるありさまであった」

(同上106頁)

当時の日本軍には道路構築に必要な作業力がなかったことも指摘されています。藤原自身が「われわれ歩兵部隊には何の土木器材もない」と述べており、個人の壕を掘るための円匙(スコップ)と十字鍬(小型の鍬)しか手持の装備がなかったので、周辺の農家から農具を徴発していました(同上)。しかし、鍬やもっこを使用したところで困難な状況には変わりはなく、著者は米軍機による上空からの脅威にも警戒しなければならなかったとも述べています。

「この道路工事は、米軍機にも狙われた。6月初めのある日、突然超低空で大型双発の戦闘機が機銃掃射をしながら、作業中の中隊の頭上すれすれを通り過ぎた。わが隊に死傷はなかったが、精神的な恐怖感は大きかった。それからは対空監視哨と機関銃を用意しておき、作業隊はなるべく分散することにした。作業隊のすぐ後方には、道路の完成を待って自動車部隊の行列ができていた。これも米軍機のかっこうの目標になったのだろう。何回もその方向で銃爆撃の音が聞こえた」

(同上)

この出来事の後も藤原が日本軍の戦闘機を「一回も見たことがなかった」と述べています(同上、107頁)。結局、上空掩護がないまま工事は続けられ、6月下旬にようやく終わりましたが、作業に従事した兵士には十分な兵站支援がなかったことから、多数の栄養失調患者が生じました(同上、108頁)。しかも、後日この完成した道路は兵站線として役に立たないと判断され、6月2日には撤去する命令が発令されました(同上、109頁)。十分な支援もないまま無計画に実施された建設工事のために、多くの兵力が無駄に浪費されることになりました。

こうした歴史上の事例を見ると、平地における遊撃戦の進め方に対する理解を深めることができると思います。交通破壊で敵の部隊を路上に渋滞させておき、これを航空機で攻撃して阻止するという作戦運用も興味深い点です。遊撃隊を掩護する上で狭隘な地形が有利であることは常識的な話だと思いますが、地形改造で遊撃隊にとって有利な空間を人為的に創出する発想は現代の戦争でも通用するものだと思います。こうした戦いで勝敗を分けるのは、武器や弾薬ではなく建設機械でしょう。

見出し画像:Japanese mechanized forces marching towards Lo-yang

参考文献

菊池一隆『中国抗日軍事史1937-1945』有志舎、2009年

藤原彰『中国戦線従軍記』岩波書店、2019年

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