なぜ戦略学の研究で経済が重要な検討課題になるのか? マハンの戦略思想の紹介
戦略学は、武力の行使や威嚇などによって国家の政策を遂行する方法を明らかにする研究領域です。戦略学は軍事学の下位領域に位置づけることができますが、実際に研究を進めると経済が重要な研究対象になることも少なくありません。
本稿では、なぜ軍事学の領域で経済が問題になるのかを説明するために、19世紀のアメリカの戦略思想家アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan)の学説を解説してみたいと思います。
マハンは19世紀に数多くの著作を残したアメリカの戦略思想家です。彼の著作で特に注目されているのは海洋戦略を論じた『海上権力史論』(1890)であり、そこでは国家が海洋を支配することがいかに重要であるかを説いています。
興味深いのは、マハンは海洋を支配することの重要性を、軍事的な意味だけでなく、経済的な意味でも説明していたことです。マハンは海運は陸運よりも輸送の効率で優れており、商業の発達にとって大きな役割を果たすことができたとして次のように述べています。
「海上には周知又は未知のあらゆる危険があるにもかかわらず、海路による旅行も輸送もいずれも常に陸路によるよりはより容易かつ安価であった。オランダが商業上の大をなしたのは、海上輸送のみならず多数の静かな水路のおかげであった」(邦訳『海上権力詩論』41-2頁)
ここで指摘しているように、16世紀以降のオランダの経済成長は船舶輸送を基盤とする商業の発達によるものでした。貿易そのものは以前からヨーロッパで広く行われていましたが、海上貿易は内陸貿易に比べて貨物の輸送効率が優れており、事業としての大きな収益が見込めました。大きな富をもたらす事業であったからこそ、海軍を建設する必要が発生したとマハンは述べています。
「この商船の保護は、戦時においては武装船によって行わなければならない。したがって狭義の海軍は、商船が存在してはじめてその必要が生じ、商船の消滅とともに海軍も消滅する」(同上、43頁)
そもそも海軍は人間の生存空間である陸地において作戦行動をとることはできません。したがって、独立した軍種として海軍を建設する必要が発生するのは、海上貿易が人間の生存空間に組み込まれてからです。そして、ひとたび海上貿易に対する依存が始まれば、その国民は海軍で通商の安全を確保しなければ、経済的に多大な損失を被る恐れがあります。このように、マハンの戦略思想は経済的な合理性によって裏付けられているのです。
マハンの立場で考えると、国民が税金という形で負担する海軍の費用は、海上貿易の保護で国民が受け取れる便益と絶えず比較しなければなりません。例えば、日本のようなエネルギー資源を持たない国が、何らかの軍事的脅威のために、船舶で原油や天然ガスなどを輸入できなくなれば、たちまち国内のエネルギー需要を満たすことが困難になります。
備蓄を使うことで当面の需要を賄うことも考えられますが、事態が長期化すればエネルギー価格の上昇は避けられず、製造業を中心にあらゆる業種で減産が起こると考えられます。生産の減少は物価を上昇させる要因になるので、最終的に軍事的脅威は国民の実質所得を減少させる効果をもたらします。企業が生産を減らすことで雇用が失われ、失業が増加するという経路でも影響が広がるでしょう。経済損失の大きさを推定する方法を明らかにすることは本稿の主題ではありませんが、軍事予算の水準はこのような経済損失の大きさとの関係で判断する必要があることは強調しておきます。
この議論はさらに専門的な形で深めることができるでしょう。現代の国際政治で直ちに海上交通を完全に途絶させるような軍事的脅威が発生する確率は極めて低いと考えられるので、それを無視してやみくもに軍事予算を増やせばよいということにはなりません。
また、より強力な海軍を保有する他国と同盟を締結し、防衛の費用を他国に転嫁することも戦略の一つとして考えられます。この場合、同盟国に軍事的な負担を負わせることになるので、外交交渉では自国が受け取る経済的な便益の一部を同盟国に提供することが求められるでしょう。どれほどの便益であれば同盟国に提供できるのかも検討の課題となります。
本稿ではマハンの戦略思想を紹介することによって、戦略の研究において経済の要素が重要な意味を持っていることを示しましたが、軍備や戦争を経済的な費用の観点から検討したのはマハンだけではありません。戦略思想史では孫武はその最古の例として挙げられます。現代の政治学では、各国の国防政策や軍事戦略が財政運営と密接な関係を持っていることが明らかにされています。
関連記事
調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。