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ソ連・ロシアが世界に偽情報を広める積極工作の歴史を描いた『アクティブ・メジャーズ』(2020)の紹介

軍事の研究では、古くから偽情報(disinformation)を広めることによって、相手の情報活動に影響を及ぼす方法が論じられてきましたが、その重要性は社会の情報化が進んだことで、さらに大きなものになったといえます。偽情報が対外政策の手段として重視されるようになったのは、冷戦期以降のことですが、それ以前からソ連の情報機関ではこの手法の有効性が認識されており、組織的に試行錯誤されていました。その成果を踏まえ、ソ連をはじめとする東側では偽情報を組織的に広めるようになり、積極工作(active measures)と呼ばれるようになりました。

トマス・リッドの『アクティブ・メジャーズ(Active Measures)』(2010)は、20世紀から21世紀の初頭にかけてソ連が発展させ、後にロシアが引き継いだ積極工作の歴史を論じた研究成果です。1921年にソ連で専門部署が立ち上げられてから、2020年に至るまでの、およそ100年にわたる積極工作の歴史がまとめられており、どのような事例があったかを明らかにしているだけでなく、当時の状況で効果があったのか、背景にどのような事情があったのかを説明しています。

トマス・リッド『アクティブ・メジャーズ:情報戦争の百年秘史』松浦俊輔訳、作品社、2021年

ソ連は第一次世界大戦の最中に起きたロシア革命(1917)により成立した社会主義国家ですが、その後のロシア内戦(1918~1922)で150万人から200万人の人々が国外に逃れることになりました(23頁)。1921年7月、ソ連の指導者であるウラジーミル・レーニンは、世界各国で活動していた共産党に対してコミンテルンを通じて声明を発しており、亡命したロシア人が組織化され、反ソ的な策略を巡らせているという認識を示し、「あの手この手でソビエトのロシアを巧妙に出し抜き、破壊しようとしている」と警戒を呼びかけました(24頁)。そのため、ソ連では建国された直後から社会主義体制の存続を図る上で外国の動向に目を光らせていました。

ソ連で反革命、サボタージュの取締りを行っていた秘密警察のチェーカーにいたアルトゥール・アルトゥゾフは、エストニアの首都タリンで亡命ロシア人の動向を探り、特にソ連の体制転覆を目論む王党派の動きを警戒していましたが、ある手紙を盗み読むことによってソ連政府に勤務していた公務員ヤクーシェフという男が王党派に通じていることを特定しました。アルトゥゾフは彼を尋問し、裏切りの証拠を突き付けて処刑される危険があることを知らせ、今後はソ連の積極工作に協力するように働きかけて、同意させることに成功しました(26-28頁)。

次に、アルトゥゾフは、架空の王党派組織である中央ロシア君主主義組織を設立し、その指導者にヤクーシェフを据え、実在しない反革命運動に従事させました。この積極工作によって、ソ連は国内外に広がる王党派のネットワークに浸透することができるようになり、その動向を内側から探っていきました。この積極工作の成果を踏まえ、アルトゥゾフはトレスト作戦を実行し、ソ連の反革命を支援していたイギリスの情報員シドニー・ライリーをソ連に誘い込み、逮捕することにも成功しています(33頁)。ライリーは秘密裡に死刑に処されましたが、この事実を隠すために、アルトゥゾフはライリーが密かにソ連とフィンランドの国境を越えようと試み、銃撃事件が起きたという架空の物語を設定しました。この設定に沿ってフィンランドの警備担当者にライリーと2人の中央ロシア君主主義組織のメンバーが殺害されたという印象を抱かせています(同上)。このような経験を得ることによって、ソ連は積極工作が自国に敵対的な人物を特定し、情報を収集する上で効果的な手法であることを確認していきました。

著者は、1960年代にソ連で積極工作の規模が各段に大きくなったことを指摘し、その功労者としてイワン・アガヤンツ(Ivan Agayants)の名前を挙げています。アガヤンツは、ソ連の情報機関であるソ連国家保安委員会(KGB)で高い評価を受けた情報の専門家であり、1959年にD局という部署で40から50名ほどの人員を使い、積極工作の基礎を築きました(152頁)。1962年にD局はA局に改編され、人員の規模は2万名近くに成長しました(同上)。1964年にアメリカはこのKGBの活動を察知し、年間で350件から400件の工作が実施されていたと見ていました(152-153頁)。より詳しい実態が分かってきたのは、積極工作に従事したチェコスロバキア出身の共産党員ラディスワフ・ビットマンが1968年にアメリカに亡命したためでした(155頁)。彼の情報で、1960年代に東側の積極工作の内実が明らかにされましたが、著者はこの時期にはアメリカも偽情報の拡散を行っていたことを指摘することも忘れておらず、ソ連だけが実施していたわけではないことも明らかにしています(第4章)。

A局の具体的な業務内容に関しては1979年に局長を務めていたウラディーミル・ピョートロヴィッチ・イワノフが部内向けに行った秘密講演の内容からある程度把握できます。この秘密講演でノートをとっていたブルガリア軍のディモ・スタニコフ大佐も偽情報活動を担当しており、ノートはタイプ起こしされて保存されました(253頁)。「この講演の書き起こしは、ソ連の積極工作組織についての最高の一次史料」と著者は信頼を置いています。その史料によれば、A局の積極工作のペースは1960年代から1970年代にかけて上がり、1979年には「積極工作はあたりまえになり、成功しすぎた」とされています(254頁)。

それは組織的に実施されていました。現場からの提案はA局の局長または副長によって許可されなければ実施されず、現地の支局で実行されることが決まったとしても、KGBの現地部長の署名が必要とされていました(254頁)。これは「この分野での作業には大いに正確さが必要」とされていたためであり、「中心がなければならない。望まない失敗や間違いを避けるために」と説明されていました(255頁)。厳格な中央統制を徹底すること、長期にわたる偽情報の整合性を保つことに寄与すると考えられていました。年間計画は1月に作成されており、12月には各支局の積極工作に関して報告が行われていました(同上)。人事制度としては、まずA局は現地の駐在支局で有望な職員を探し、採用から1年から2年の時間を偽情報管理の手順を訓練します。その後で国外に配置して運用しますが、その間も局が厳重に統制を維持しました(同上)。

著者はいくつかの興味深い事例を取り上げていますが、まず1979年にパキスタンで起きた騒動を誘発させた積極工作に注目してみます。1979年11月20日、サウジアラビアにあるイスラム教の聖地メッカのマスジド・ハラームが武装勢力に占拠されるという事件がありました(アル=ハラム・モスク占拠事件)。サウジアラビアは独力でこの事態に対処できず、パキスタンとフランスに応援を求めましたが、A局はこの偶発的な事件を利用し、11月21日に西側寄りのパキスタンで積極工作を実施しました。駐在ソ連大使館の広報部がこの積極工作に参加し、この事件の背後にはアメリカが関与しているという噂をパキスタン国民の間で広めたのです(258頁)。この噂は口頭によって拡散され、間もなくしてアメリカ大使館の前には1,000人近くの群衆が集まってきました(同上)。大使館の職員は避難し、警備していた海兵隊員1名が銃撃を受けて死亡しました(同上)。建物に放火されたために、大使館職員は危険な脱出を強いられ、結果的にアメリカ人2人、パキスタン人2人が死亡しています(同上)。ソ連は積極工作の影響によって実際に手を下すことなく、アメリカの外交活動をここまで妨害することが可能でした。ただ、イワノフは、このように積極工作の効果を示しつつも、過度な捏造を展開することによって、やりすぎることを戒めてもいます(259-60頁)。また、偽情報を広めるためには、「工作への我々の関与を隠し続ける誘導工作員」が必要であるとも述べていました(260頁)。

積極工作における誘導工作員の役割が分かる事例として、「アメリカ製エイズ」として知られる陰謀論の拡散を取り上げています。これは冷戦期に最も成功したソ連の積極工作の一つでした。1981年7月3日にアメリカの大手メディアである『ニューヨーク・タイムズ』で深刻な感染症に関する記事が掲載されました。この致命的な感染症は後にアメリカの公衆衛生上の緊急事態を引き起こすことになるのですが、当時はまだ原因が明確に分かっておらず、また初期の患者の属性が同性愛者であったために、大きな誤解が生じました(312頁)。その混乱の中で、チャーリー・シヴェリーという活動家が『ゲイ・コミュニティ・ニュース』でこの話題を取り上げ、この感染症の原因となっているウイルスがアメリカ軍によって開発された兵器であるという陰謀論を拡散させました(313-4頁)。このとき、KGBが積極工作をまだ開始していませんが、1983年7月16日にインドの媒体である『パトリオット』でこの陰謀論を利用した積極工作を開始しました(314頁)。この媒体に掲載された記事は、アメリカの著名な研究者から寄せられた匿名の手紙とされており、アメリカで問題となっているエイズは、アメリカ軍が開発した新しい生物兵器の成果であるという陰謀論が展開されていました(314頁)。

当時、インドで『パトリオット』は一般的なメディアではなく、発行部数は3万5000部にすぎませんが、ソ連の資金援助の下で運営されていたメディアでした(315頁)。発表当初は反響が乏しく、あまり効果がなかったようですが、アメリカでは流行が続き、1985年の夏には1万人を超える感染者と5,000人を超える死者が出ていると報告され、9月からアメリカ軍の兵士を対象とした検査も開始されるなど、社会的に大きな問題になっていました(316頁)。同年9月7日にKGB第一総局は本格的にアメリカ製のエイズという陰謀論を広めるため、『パトリオット』に掲載された「事実に基づく」記事の内容を拡散するように指示する秘密文書を関係者に送付しました(同上)。10月30日に『リテラツルナヤ・ガゼータ』で掲載された「西側はパニック――あるいは何がエイズ騒動の背後に隠れているのか」という見出しの記事では『パトリオット』の記事が参照されていました(319頁)。この記事は、当初はソ連の広報努力によって拡散されていましたが、アメリカではソ連と一切関係がなかったメディアでも取り上げられるようになっていきました(319頁)。その過程で多くの誘導工作員が拡散に協力しており、その中には東ドイツのフンボルト大学で生物学研究所の所長を退職したヤーコプ・ゼーガルも含まれていました(320頁)。

「KGBはエイズ作戦を大成功と評価した。1982年、ロシア対外情報庁長官、エフゲニー・プリマコフは、モスクワの外務省関連学術機関MGIMOでの講演の際、エイズ偽情報作戦でのKGBの役割を認めた。プリマコフはエイズの記事は『KGBのあちこちの個室で作られ』、その目的は単純に赤軍側の化学兵器使用から目をそらせることだったと明らかにした。ある有名な亡命者は、デンバー作戦が『おそらくゴルバチョフ時代初期に第三世界で最も成功した積極工作だ』と主張した」

『アクティブ・メジャーズ』323頁

KGBが積極工作としてアメリカ製エイズの陰謀論を広めていたのは1985年10月から1987年10月までの期間でしたが、これはソ連が一から偽情報を作り上げて拡散していたわけではなく、誘導工作員の協力によるところが少なくありませんでした。ソ連は社会の状況を監視する中で、ある有望な話題を掴むと、それを巧みに操った上で、有利な偽情報に加工し、組織的にそれを拡散しました。それは長く社会に影響を及ぼし、人々の認知を形成してきたという事実は、民主主義の健全な発展の可能性を探る上で重い意味を持っていると思います。

この著作が最も興味深いのは、ソ連が解体された後も、この積極工作の手法がロシアに受け継がれたことを述べている第5部と第6部です。1990年代以降にロシアがインターネットを通じて積極工作の手法をさらに発展させてきたことが詳しく解説されており、私たちがその活動と決して無関係ではいられないことを認識させてくれます。

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武内和人|戦争から人と社会を考える
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