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生きていれば色々あるだなんて
『人生色々あるよね』なんて散々聞いてきた。耳にたこが出来ていたらたぶんこれのせいだ。
これまでも、必死の思いで言葉にしたはずの自身の葛藤に「大丈夫だよ」とか「色々あるよね」と返されるたび、あーあまとめられちゃったよと石ころを蹴っ飛ばしてきた。
だけど実際のところ、人生って色々あるのだ。
楽しいはずのGW、後輩から自身の誕生日に失恋したと連絡を受けた。
彼女に酷い振られかたをしたうえに、休み前の大事な仕事でミスをしてしまい踏んだり蹴ったりだといつになく落ち込んでいた。つらかったよね。
長い時間LINEをしていると彼からすっきりした雰囲気を感じた。いつもの彼だと少しほっとしたわたしは "色々あるけど大丈夫だよ" と書いて、送信ボタンを押す前に慌てて消した。
自分でもびっくりした。彼からすれば今が辛いのだし、大丈夫かどうかなんてまだ見えようもないのに人生って色々あるだなんて。
わたしだってもっとずっと、一瞬の感情の積み重ねで生きていたはずだ。だぁぁあ悲しいぃぃとか、もう怒った!すごく怒った!!といった具合に、今日は満足明日は不服と目まぐるしく過ごしていた。それなのに、いつからかそういうのを全部ひっくるめて『人生色々あるな』と思うようになった。
きっといつの時代もそうだ。
溺れてもがいている若者たちには周囲の大人が微笑ましい様子で『落ち着いてそこ足つくよ』と伝えてきた。そしてずぶ濡れで拗ねている若者を見兼ねて昔は僕もねと、同じ場所で溺れた経験を話すのだ。
"なにかに触れることで知ること"を経験と呼ぶなら、誰もが日々経験を重ねている。
人間関係や失恋、社会での失敗、人の生き死に。そしてその過程で自身がどうあればよいかという術を知り身につける。知っているから余裕ができるし、大人の余裕とはきっとこれだ。
だけれどそれらを知った大人は二度と浅瀬で溺れたりしない。そして溺れたあの時の感情はやがて過去になり、いつか忘れてしまうのだろうか。
ひとつ拾ったら、ひとつ捨ててしまわなきゃいけないなんて、そんなの人間のバグだと思う。
わたし自身、立ち直れなくなるくらい悲しんだり傷ついたり何かを不安に思うことが格段に減った。"生きていれば色々あるから"だ。
それでも誰かがつまづいた時『大丈夫そんなの大したことじゃないよ』なんて思ってしまいたくない。人生って色々あるからと片付けてしまいたくないのだ。
そんな思いとは裏腹に、思考がどんどん長く安定してゆく。
『大丈夫』『何とかなるもんだよ』『長い目で見たら』『人生って色々あるから』
頭や心と裏腹に、まるで脱皮でもするみたいについ先日まで着ていた感情が切り離されてゆく。
人生って色々あるものだから、は紛れもなく正しく正論なのだ。嬉しいも悲しいも辛いことも幸せなことも、それを感じられる自分さえあれば必ずどこかで訪れるようにできている。
それでもまだ、わたしは誰にもそれを伝えられずにいる。
人はこれをモラトリアムだなんて呼ぶだろうか。
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