おっそろしい調理師専門学校!
私は約40年間、洋菓子職人をしていたが、その原点ともいうべき大阪のとある専門学校が、今思えば、他校に比べてきびしく、就職したのちの忍耐
と体力をつけてもらったスパルタだったという話!
私の通っていた調理師専門学校は大阪にあり、家から片道1時間半で、電車は2回乗りかえる。通勤サラリーマンと時間が重なるため、毎日学校に到着時はへとへとになっていた。1年制の学校だが、生徒は本校と分校合わせて
1000人近くいたと思う。14組もあるクラスをローテーションで調理師免許を取得するための、学科、実習、調理講習というカリキュラムをこなすため、
8階建の校舎を授業ごとに階段で移動する。
入学して最初に叩き込まれたのは校歌!ここからして何かが違う!
思っていたのと全然違う!入学案内のパンフレットのなごやかな雰囲気は?
ずいぶん前のことので確かか?と問われると ンーーっとなってしまうかもしれないが、とにかく厳しい!それだけは確かだ。
体育の授業もあった。ちょっと恥ずかしい山吹色のジャージの上下で、オフィス街を50人の集団が大阪城まで走って校舎の裏の公園まで走って戻ってくる。10kmはある。
腹筋、腕立て伏せを100回とかまるで自衛隊に入隊したようだ。
退学しても授業料は戻ってこない。だから、ほとんどが卒業まで頑張って続けている。
夏休みまでの実習は包丁研ぎのみ、錆びていたら減点だ。
合宿もあった、バスで3時間くらいの田舎に、学校所有の立派なログハウス風の建物があり、わざと失敗させて、怒鳴り散らしたりする教師もいたりして、何故あんな、何故こんな、何故そんな と思っていたが、社会人になって、何故の疑問がとけた!
入社して、理不尽な事に、耐えられたのも、この学校のお陰だと感謝している。
卒業式は調理師免許を手渡されると同時に出席率や実技試験の点数、学科試験の点数などの総合評価で、金賞(若干名)、銀賞(ベスト100?)
銅賞(ベスト300?)まあ、これはどうでもいいが、私は銀賞だった。
今でも連絡をとっている仲の友人は金賞でしかも首席で、代表として、大阪フェスティバルホールの舞台にたった。
私の包丁はいつも彼に研いでもらっていたので、ピカピカだった。
彼は現在、家業をついで左官屋をしている。
他には、卒業後、数年たって ゲイBARのチーママやってまんねん!と連絡してきたものもいたりして、はたして何人位が、調理関係の仕事についているのか、続けているのか、わからないが、専門学校レベルにはない厳しさに耐えた卒業生達はどの道に進んでも頑張っていることだと思う。
時が過ぎ、面接する立場になった私は、自分の母校の出身者の面接を楽しみにしてが、残念ながら母校は倒産していた。