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●オリムピックこぼれ話●~その弐~

★1964年10月11日の読売新聞…渦巻く五輪の興奮、カラー中継に歓声
1964年の東京オリンピックでは、オリンピック史上初の衛星中継が、アメリカの静止衛星「シンコム3号」によって行われた。そのため1964年の東京オリンピックは「テレビオリンピック」と呼ばれたようであるが、期せずしてコロナ禍により無観客開催となって多くの人が自宅観戦することになった2021年の東京オリンピックも異なる意味合いで「テレビオリンピック」となっているのは、奇妙なめぐりあわせである。

そして、1950年代後半から各家庭に普及していた「家電の三種の神器」の一つである「白黒テレビ」にその後「カラーテレビ」が取って代わることにつながる大きなきっかけが、カラー放送で届けられたオリンピックの開会式・閉会式、バレーボール、柔道、体操、レスリングなどの8競技であった。オリンピックによって人々は、街頭や高所得層の家庭のカラーテレビで映し出されるカラー放送の魅力にとりつかれることになった。

アメリカ、キューバに続いて世界で3番目にカラーテレビが発売された日本では、1960年頃に売り出されていたカラーテレビは約50万円だったが、当時の小学校教員の初任給は1万円だったそうで、一般家庭にとってカラーテレビは手の届かない家電だったといえる。しかし、生産性向上による価格低下と、オリンピックのカラー放送による需要増加が相まって、それまで数千台だったものが、1964年には約5万7000台、1966年には約52万台、1967年には約128万台と一気にカラーテレビは普及していったのである。

その結果、1950年代後半に普及した白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」に代わって、1960年代には「新・三種の神器」として、カラーテレビ(Color television)・クーラー(Cooler)・自動車(Car)の別名「3C」が普及していくことになる。その後、平成に入ると薄型テレビ・デジタルカメラ・DVDレコーダーが「デジタル家電の三種の神器」と呼ばれるようになる。また、食器洗い乾燥機・IHクッキングヒーター・生ゴミ処理機を2004年にパナソニックが「キッチン三種の神器」と提唱している。さらにパナソニックは、2020年に「令和の家電・三種の神器」が4K/8Kテレビ・冷蔵庫・ロボット掃除機であると発表している。

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★1964年10月11日の読売新聞…パン食のために、穀類を食べすぎないように
1950年代半ばのMSA協定(日米相互防衛援助協定・農産物購入協定・経済的措置協定・投資保証協定の4協定の総称)に基づき、日本は米国産の小麦を大量に受け入れることとなった。これはアメリカ国内で小麦の在庫が膨れ上がり、余剰農産物の処理方法の一つとしてアメリカが考えたものであった。そのため、日本は1954年に学校給食法を制定し、その施行細則では「完全給食とは給食内容がパン(これに準ずる小麦粉製品等を含む)、ミルク、及びおかずである給食をいう」と明記されるなど、小麦粉製品を主な食材として給食が提供されるようになった。

そして、日本は政府も民間も「米食からパン食(粉食)へ」という考え方で様々な取り組みが行われるようになる。代表的なものとして、日本食生活協会が1956年から始めた栄養改善指導がある。栄養指導車(キッチンカー)で全国を回り、小麦とサラダ油を使ってパンケーキ・スパゲティ・ベーコンエッグ・オムレツなどの実演調理を行う「フライパン運動」が展開された。また、1961年に制定された農業基本法では「選択的拡大」として、米作から牛乳・食肉・果樹・野菜に農業生産の中心を移すことが推奨された。

さらには、1963年頃から「マミアン」というアミノ酸飲料のCMの中で、谷啓が発する「たんぱく質が足りないよ〜」というセリフが流行したようで、ここでも米食の欠点を補う必要性や「食の洋風化」の傾向を感じ取ることができる。

このような流れの中でも驚かされてしまうのは、慶應義塾大学の教授で大脳生理学者の林髞という人物が1958年に出版した『頭脳―才能をひきだす処方箋 』の内容である。
「主食として白米を食するということは、とくに少年少女のためにたいへんなことであると考えなければならない。親たちが白米で子供を育てるということは、その子供の頭脳の働きをできなくさせる結果となり、ひいては、その子供が大人になってから、またその子供を育てるのに、ばかなことをくりかえすことになる」
「これはせめて子供の主食だけはパンにした方がよいということである。」
「しかし、せめて子供たちの将来だけは、私どもとちがって、頭脳のよく働く、アメリカ人やソ連人と対等に話のできる子供に育ててやるのがほんとうである」。
この本以外にも、米食で栄養が確保できるのは非科学的であるとする見解があったりして、現代から見ると驚きであるが、当時の世の中はパン食を性善説のようなものとして、急速にそちらへとシフトしていったのである。

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★1964年10月11日の読売新聞…琉球政府次期主席に立法院の指名が内定した松岡政保
1964年の東京オリンピックで、日本は戦後復興を見事に果たしたことをアピールしたが、その時点ではまだ本土復帰していない地域があった。その地域の一つが沖縄である。
沖縄はアメリカの施政下(琉球列島米国民政府、USCAR)にあったが、統治機構として琉球政府が設置され、その行政権の長が行政主席であった。

1972年5月14日に沖縄県が本土復帰によって琉球政府・行政主席はその役割を終えることになるが、本土復帰後も在日米軍の基地のほとんど(約70%)は沖縄県に集中している。そして、在日米軍関係者による犯罪や、米軍機の事故は後を絶たない。

そして、1960年、国会をデモ隊が取り囲む反対運動などの安保闘争が起こる中、新安保条約は衆議院で強行採決された後に成立した。これに関連して締結された「日米地位協定(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定)」によって、米兵が「公務執行中」に起こした事件・事故については、米軍に「第一次裁判権」があるとされるが、「公務中」かどうかを判断するのもアメリカ側であると考えられている。

そのため、公務中とは考えられない事件についても日本側に裁判権が認められないなど物議を醸してきたため、1995年の日米合同委員会合意によって、その運用が改善されることになったが、起訴前に身柄を引き渡すかどうかはアメリカ側の裁量となっており、課題は残っている。

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★1964年当時の新聞記事に注目してみると、現在の暮らしや仕組みと比較することができ、様々な変化に気づくことができる。一方で、変わることなく課題として残っているものにも気づく。

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