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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(9枚目とオーギュスト・コント)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

今日の1枚は、カラヴァッジョの『聖トマスの懐疑(聖トマスの不信)』である。

この絵画は、バロック期に活躍したイタリア人画家であるカラヴァッジョ(カラヴァッジオ、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ)によるものである。

イエスがゴルゴタの丘で処刑され、死を迎えた後の話として、ヨハネによる福音書では、使徒たちの前に復活したイエスが現れたが、使徒の一人聖トマスは直接、復活したイエスには出会えておらず、彼は「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と述べたことが記されている。

その後、イエスは聖トマスの前にも現れて、自分の脇腹の傷を触らせるのである。すると、聖トマスは「わが主よ、わが神よ」と言って信じたことが記されている。

ここから「疑う聖トマス」という形で、使徒の聖トマスと疑い深さが結びつくことになっていくわけだが、これを疑い深さとして捉えるのではなく異なる角度から考えることはできないだろうか。

聖トマスは、他の使徒たちの伝聞や噂のような不確かなものによって、イエスの復活という出来事を信じなかったわけである。そして、彼は自らの経験・体験を通じて得られた認識を根拠に、信じるという段階に達している。この一連の流れから、聖トマスは、具体的、客観的そして実証的な姿勢であったと捉えることができるのではないか、そんな風に思っているのである。

「人間の思考は学問研究でも,日常生活の思考でも,神学的,形而上学的,実証的という3つの段階を経て発展する」
これは、19世紀に活躍したフランスの社会学者・哲学者オーギュスト・コント(イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント)の言葉である。彼は、人間の知識獲得の歴史は三段階で発展すると考えた。その三段階とは、最初は「神学的段階」、次に「形而上学的段階」、そして最後が「実証的段階」である。

最初の段階は、人間の叡智が及ばない問題を中心に、畏敬の念に導かれながら無批判に真理・真実として受け止める状態といえる。これは自然崇拝や神話的世界観と結びつくものであると考えられる。

その後、人間は「理性」によって世の中の事象を考察するようになっていく。その段階では、観察によって原理や法則性のようなものを抽出できるようになり、単純な自然のメカニズムについては、以前に比べてある程度把握できるようになるのである。しかし、観察だけでは理解できない世界については、プラトンのイデア論が典型的かもしれないが、実際に見たり聞いたり触ったりできない形而上の問題を「理性」によって抽象的に理解しようとする段階になる。それは前段階に比べれば、考える人間がそれぞれに自分なりの理性や論理を根拠としているので、単なる受動ではない。しかし「実」を伴っていない点で抽象かつ主観の枠から出ることはできない知識であった。

そこからさらに人間は、実験や実証という「実」を伴った経験・体験を通じて、知識というものを具体かつ客観の世界に連れ出すことに成功するのである。

コントによれば、人間はこのような段階を経て、ようやく知識というものに「実」という命を吹き込むことができたと考えているわけである。

このように考えると、処刑前からイエスが各所で見せてきた奇跡の業への畏敬に基づいてイエスを信じることもせず、また復活したイエスを見たという使徒たちの話を信じることもしないで、自らの手で触れることが真実・真理に到達する道だと考えた聖トマスは、もちろん神学的段階に留まってはおらず、それどころか形而上学的段階も飛び越えて、既に実証的段階に達していたのかもしれないと捉えることができるのではないだろうか。

何事にも光と影はある。聖トマスのエピソードの影の部分が「疑い深さ」だとすれば、光の部分は「実証的な姿勢」ということになると私は考えている。

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