【小説】 ドアマンの憂い 【ショートショート】
劇場のドアマンがその職に就いたのは独裁者の気まぐれからであった。
とある演説後、独裁者の前を偶然通り掛かった青年は呼び止められ、生涯劇場のドアマンでいることを命じられた。逆らえば即刻死刑であった。
夕霧の立ち込める暗い石畳の上を、雨滴を払いながら多くの客達が劇場へ向かう。劇場は国民が許された数少ない娯楽のひとつだった。
チケットがない代わりに、席は先着と決まっていた。
ドアマンの役割はたった一つ、客から劇場にまだ入れるか否かの問いに答えるのみであった。
ドアマンは痩身で背が高く、落ち窪んだ目には染み慣れた物憂げが滲んでいる。その目を覗き込みながら、少女があどけない声でこう尋ねる。
「まだ席は空いてますか?」
「どうぞ、お入り下さい」
母親と共に劇場へ入るその姿に、ドアマンはほんの少し前の過去を反芻したものの、表情ひとつ変えずに堪えてみせた。
浮浪者がよろよろとした足取りで、ドアマンに絡み始める。
「おう、あんた一生ドアマンなんだってな?」
「……仰る通りですが」
「へっ、そこまでして生きていたいかねぇ。俺みたいに自由になるのも悪くはないんだぜ?」
「……心得ておきます」
「ふん。おい、まだ席は空いているのか?」
「はい。どうぞお入りください」
「誰が入るか、ば~か! 俺はな、劇ってもんが大っ嫌いなんだ」
「そうですか。では、お引き取り下さい」
「けっ。頼まれなくたってそうするぜ」
タチの悪い浮浪者であったが、その手の人間は少なくなかった。塵を漁り、何の生きる権利すら与えられなくとも、彼らは生きていた。
時々そんな彼らに、ドアマンは憧れの想いを抱くことすらあった。
何にも逆らえず、発言すら許されず、ただドアマンとして生かされている身分を、彼は心の底では良しとはしていなかった。
客が埋まり切った頃、そんな風に彼を思わせた人物が赤ら顔で劇場へやって来た。地区を管轄する、軍将校だった。
将校は劇場の入口まで来ると、辺りを見回して呟いた。
「席を、ひとつ」
ドアマンは自身の役割に徹し、淡々と答える。
「誠に心苦しいのですが、生憎本日の席は埋まりました」
「頼むよ……なぁ。明日から、私は前線に出なければならないんだ」
「どうか、お引き取り下さい」
「……そうか、そうか……これなら、どうだ?」
将校が袖から差し出したのは、一枚の写真だった。
それはドアマンにとって最後の家族の一人となってしまった、妻の写真だった。長男、次男と続き、長女の写真を差し出された時ですら、ドアマンは同じように彼の袖をふいにしていた。
その直後にどんな運命が待ち受けているのかは、長男の写真を差し出された明くる日に経験済みだった。
真っ先にやって来たのは、不思議なことに悲しみよりも深い安堵であった。
これでもう、何も失わなくて済む。
そう思いながら、溜息交じりにドアマンはもう一度同じ言葉を呟いた。
「どうか、お引き取り下さい」
「…………最後まで、つれない奴だったな。おまえの家族も、さぞ恨んでいるだろうよ」
「お引き取り下さい」
雨滴の鎮まった夜には、引き返して行く将校の靴の音と、劇場の中で奏でられている金管楽器の音が混ざることなく鳴り響いていた。
その音を聞きながら、ドアマンは自らの運命を呪いながら涙した。
それはこの世で最も乾いた、寂寞の中で彷徨う呪いの感情であった。
俯くこともせず、淡々と涙を流していると、浮浪者が戻って来た。
「お? なんだおまえ。泣いているのか? 笑えるぜ」
「はい。泣いております」
「おまえさんにも、泣けるくらいの心はあるんだなぁ。感心したぜ」
ドアマンの胸元には独裁者から与えられた身分を表すバッヂがつけられていたが、彼は泣きながらバッヂを毟り取ると、浮浪者にそれを差し出した。
「おいおい……俺は……世捨て人になるって決めてんだからよ」
「……さっき、あなたが言っていたことを参考にしたんです」
「そうかい、そうかい」
「あなたのように、私はもう何もかも失ってしまったのですから」
浮浪者はバッヂを受け取ると、まじまじと眺めた後に闇夜に向かって投げ棄てた。
「仕方ねぇ。ついてきな」
「はい」
ドアマンは劇場から離れ、よろよろと歩く浮浪者と共に霧の掛かった石畳の奥へと消えて行く。背の高い男と、おぼつかない足取りの男の二人組は、闇の奥深くへ吸い込まれるようにして消えて行く。
ひと気の消えた劇場前に、こんな声が薄っすらと聞こえて来る。
「ひとつだけ教えてやる。俺はおまえと違って何もかも失った訳じゃないんだ。こんな乞食の俺に、何が残されていると思う?」
「一体、何が残っているんです?」
「希望だ」
照れも恥もない、ただ真っすぐなそんな声が響いた数秒後だった。突然、駆け足になった靴音が辺りに響き始める。
その音に、男の汚くも豪傑な笑い声が混じる。
靴音は束の間の喧騒を奏でる劇場へ戻るでもなく、浮浪者の向かう闇の方でもなく、けれど迷うことなく一歩一歩を踏み出す靴の音であった。