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① これ青い鳥? 喰ってから考える

ゲームの劇伴制作を皮切りに制作を始めてン十年、細々とだが続いている。多分好きなんだと思う。劇伴が。でもその役割を請け負う中で何かどうにも満たされない部分が、それこそ始めた頃からずっとあった。

駆け出しのころから請け負う作品との相性は博打だし、売れっ子でも都合良く選べるものではないと解ってはいた。満たされない何かをコントロールできないところに求めても仕方が無い。できることを探す。作曲の腕を磨くのも大事だが、それだけやっていても自分はダメっぽい気がしていた。劇伴とは脚本、演出、カメラ、演技、編集、ゲームならプログラムなども含め、様々な要素が複雑に絡みあう中に存在する1パートだ。作曲以外に満たされるヒントがありそうに思えて、ゲーム以外にもアニメや映画の劇伴、効果音制作や音声収録とそのディレクション、音監/プランナー/カメラ/演技/脚本/編集、TVCMやPVの監督までチャンスがあれば手あたり次第に食いついた。自分にとっての制作の必然や根幹を探す。振り返ると全て繋がっていたし、新鮮で充実感もあった。
しかし完成後の達成感が過ぎ去ると名状しがたい不安や焦りが現れる。若輩ゆえの迷いだろうと振り払ってもそれは消えることなくまとわりつき、時間だけは過ぎていく。

手探りする中、長尺の脚本(単行本数冊分ぐらい)を一人で全部書く機会に恵まれた。書き終えた時、ずっとあったもやもやがいつもよりかなり少ないことに気づいた。ふと疑問が浮かぶ。
もしや自分は音楽ではなく、物語が根なのでは?
ならシナリオ中心にシフトすれば満足できそうか? 何度考えてもしっくりこない。どうも音楽が必要で——いや、
音楽を作ること"も"必要らしい。
自分は本質的に何を求めてるんだ。無い物ねだりかとぐるぐる悩む。

結論から述べると
何を作るか(結果)だけではなく、どう作るか(過程)がポイントだった。
音楽、劇伴、シナリオ、小説、映画、アニメ、ゲーム、どの媒体でどのジャンル、手段を選び、どの程度まで関わるかは重要なファクターだ。重要なのだがそれはまだ表面的で、さらに奥でやもやしていたのは
「チームで作るもの」
「自分ひとり、ソロで完結するもの」
この二つの根本的な差異への無自覚さ
だった。

アンサンブルとソロでは「やりきった感」の満たされポイントが違う。
それをチームの仕事で全部満たそうとしていた。

チームでやるかソロでやるか、どちらか選ばねば!な二者択一。
「私と仕事、どっちが大事なの!」というお約束である。
チームでしかできないことがあり、ソロでしかできないことがある。
両方平行すればいい話だが、どこかで考えないようにしていた。なぜなら

どっちもやるのしんどい。

チーム制作でもソロ同様のアプローチが必要な箇所は山ほどある。そこでソロ成分の補給はできる。相性の良いチームやプロダクトに巡り会えばかなり満たされる。先ほど挙げた長尺の脚本はゲームだが、作品全体の方向性を大きく左右する核だった。チームで作るモノではありながら担当パート的にソロ成分が大変豊富で、それが充足感になっていた。
ならチームでも同様に大きな核を担えばいいのか(出来るかどうかは置く)というとそうでもない。
ソロとチームは本質的に別モノなのだ。
ベルリンかウィーンか忘れてしまったけれど、オーケストラの奏者さんが定期的にソロでコンサートを開く理由を耳にした。
「ソロをやらないと鈍る」からという。
ああこれかと、すとんと腹落ちしたのを今でもよく覚えている。
アンサンブルだけでは何かが鈍る。自分の危機感の正体はそれだった。
※ソロとチームどちらが上という話ではなく、相互に作用するし比率もあるが"全くの別モノ"と捉えていることを誤解の無いよう強調しておく

振り返れば今まで曲数だけはそこそこ書いたし、出来はともかくひとつひとつに真摯に向き合ってきた自負はある。しかしソロの感覚でやり切ったと思える仕事は、片手の指の数ほどもないと思う。
分野を跨いだり裁量権を拡張した時は危機感が薄れた。慣れないことに手一杯になる+新鮮さで危機感を紛らわせていたのかもしれない。
全部自分で「決め切る」ことでしか鍛えられない筋肉があるように思う。
チームでやり続けるにしてもこの筋肉は結構大事で、弱いまま放っておくとチームでも早晩頭打ちする予感があった。
管理職に昇格し現場を離れたことでダメになっていくパターンがある。
似た臭いを自身が発していて、検知したアラームが鳴っていた。
アラームの理由が解らずだいぶ遠回りした。町内放送のように解りやすく言葉でアナウンスしてほしい。ともかく、状況はだいたいわかった。

それはそれとして

両方やるのは大変だ<ループ


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