でも僕は愛ちゃんが好きだ❗
子供に答えられますか?・・・ジェンダーレス
ある日曜日の昼下がり、僕はテレビで変な大人たちを見た。
それはどこか外国の風景のようだった。
商店街のなかをカラフルな旗を持った人たちが たくさん歩いていたのだ。
その人たちは、男の人同士で手をつなぎ、なかには裸に近い恰好の人もいたが、にこにこしながら街行く人に手を振りながら歩いていた。
みんな楽しそうにしていた。
でも僕はそれを見て、男の人同士が手をつないでいるのは気持ちが悪かった。
そこでお母さんに聞いてみた。
「ねえ、あの人たちどうして男同士で手を繋いでいるの?」
「あのような人たちもいるのよ」
「あのような人たちって?」
「世の中には、男の人同士、女の人同士で好きになる人もいるの
これからは日本でも、そういう人たちも差別せずに温かく見守ってあげなくちゃいけない時代なのよ」
「別に僕、差別とかするつもりはないけど・・
だけど僕は、正直言ってなんか気持ち悪いよ
僕が手を握って気持ちいいのは女の子だけだし
男の子と手を握るなんて、なんかイヤだなあ」
「高志、そういうことを人前で言っちゃダメよ」
「なんで?」
「どうしても、まだ子供はいいかもしれないけど、大人はダメなの」
「でも、それっておかしくない?
僕の気持ちは言っていけないの?
あの人たちは、堂々とパレードまでしているのに
ママは僕の気持ちよりもあの人たちの気持ちが大事なの?」
「・・・・」
「だったら僕も『愛ちゃん』と手を握って街を歩いてもいいんだね?」
「それ聞き捨てならないわね
愛ちゃんて誰?
あなたはまだ小学生じゃない
まだ早いわよ
それこそ街の噂になっちゃうからやめてね」
「だって今ママ『差別せずに、あたたかく見守らなければいけない』って言ったじゃん、僕を差別していることになるよ」
「それとこれとは話が別なの」
「でも、僕はやっぱり愛ちゃんが好きだなあ・・・」
「そんなことを人前で言うものじゃないの」
「でも、あの人たちは、正々堂々と手を繋いでいるよ
お互い好きだと人前で言っているようなもんじゃん、僕が言ったことと一緒だよ」
「まったく、この子は
理屈だけは一丁前になって」
「一丁前って何?」
「・・・」
ついに母親は降参した。
(この物語はフィクションであり、登場人物は全て仮名です)
あなたはどう答えますか?
確かに今や多様性の時代です。
色々な価値観があり、それを尊重することは大切だと思います。
しかし「尊重する」ことと「受け入れること」は別だと思います。
なぜなら人の価値観は、それこそ人それぞれだからです。
受け入れられないものはどうやっても受け入れられない人もいるのです。
受け入れないというのも、ひとつの価値観です。
平たく言えばいやなものはいやなのです。
それは何も、ジェンダーレスの問題に限ったことではありません。
ジェンダーレスは、単なるひとつの例です。
今やいろいろな価値観があり、お互いそれを尊重することが大切なことは分かります。
しかし今の世の中、何か一方的にひとつの価値観だけを重視して、他の価値観を認めようとしない、あるいは排除しようとしているように感じませんか。
「多様性を認めよう」と言いながら、他の価値観を認めようとしていないあるいは無視しているように感じませんか。
あなたも高志君のお母さんのように、知らず知らずのうちにメディアの価値観になってませんか?
でも、よく考えてみてください。
結局一方の価値観を優先すれば、他の価値観を差別していることになりませんか?
それって「多様性を尊重する」ということと矛盾していませんか?
以前、「LGBT法案」審議の課程で、オフレコで取材を受けた官僚が同性愛者のことを
見るのも嫌だ
と、つい本音を漏らしたところ、それを聞いた記者は、オフレコのルールも破ってその発言を問題視するスクープ記事とし、その官僚を辞職に追いやって社会的に抹殺しました。
つまり、そのメディアは
ルールを守る
という子供でも分かる社会規範を平気で破りながら、その官僚を社会的に葬り去りました。
それって、メディアがいつも言っている「多様性」を認めないことになるんじゃないですか。
それこそ差別じゃないんですか。
「見るのもいやだ」という価値観は差別していいんですか。
また、そのメディアは、平気で社会規範を破るということを子供にどう説明するのでしょうか。
社会規範を守る以上に
報道する価値と必要性
があった
とでも弁解するのでしょうか。
それは、あなたたちメディアの価値観でしょう?
そんなことになったら、なんでもありです。
世の中のありとあらゆる秩序が崩壊します。
確かに普通の男女の関係なんて、報道の価値はないかもしれません。
でも、それが大多数なのです。
ところがテレビをつければ性の多様性に偏った報道やドラマのなんと多いこと・・
まるでジェンダーフリーが一番進んだ考え方のように。
それが大多数の意見のように。
そして、セクハラなど少しでも女性の人権が侵害される事案があれば、「男が悪い」の大合唱・・・
むろんセクハラなど許されものではありませんが、男女同権を謳いながら、なぜか
女性は弱い
だから守られて当然
という差別的自虐的価値観が潜んでいるという矛盾。
今の時代、強い女性もたくさんいるような気もするのに。
結局、高志君のお母さんのように、矛盾したものを子供にまで押し付ける形となっています。
「でも僕は愛ちゃんがすきだなあ」
高志君が言った、この本能的とも言える女性を愛する普通の価値観。
これがないと結婚率は下がり少子高齢化率はますます上がり、国の行く末にうすら寒いものを覚えるのは私だけでしょうか。
ただ私は、何もジェンダーレス的価値観そのものに反対しているのではありません。
多様性、おおいに結構。
少数者も尊重する。
民主主義の基本でもあります。
そしてその少数者の意見も大切にしたいというメディアの姿勢も分からないわけではありません。
だからと言って、それを他人に押し付けたり、反対意見を言葉狩りのように糾弾して、あまつさえ他人の社会的地位まで奪うというものはどうなのでしょうか。
ひとつの考え方を他人に押し付けるというのはどうなのでしょうか。
昔、先の大戦時に戦争遂行に反対する者は
非国民
というレッテルを貼られ、社会から抹殺されました。
ところが戦後「反戦・平和」を旗印とした考えが主流になると、少しでもそれに反した論調は
右翼
というレッテルを貼られて差別化が図られました。
今のジェンダーレスの風潮やSDGsという名前の環境配慮に対しても、同じ空気を感じます。
SDGsなど正確に分かっている人は少ないと思います。
皆空気で「なんかいいこと言っているなあ」と思っている人がほとんどです。
メディアや企業はそれに乗っかっているだけです。
しかし世界中を見渡せば、どうやらSDGsについて日本ほど真面目に取り組んでいる国はないそうです。
日本人は、その本質を見極めずに空気に流されているだけです。
そうなのです。
いつの時代も日本人は「空気」に弱いのです。
時代は変わっても、何も変わっていない気がします。
本当の多様性とは何か。
メディアの力を借りずに、あなた自身がもう一度よく考えてみませんか。
未来を担う子供たちに、しっかり答えられるために。
今回は子供の目を借りて、誰も口にしないこと、思っていても口にできないことを掘り下げてみました。
今後も、今の世の中に満ち溢れていながら、あまり大人が口にしない、できない疑問や問題を掘り下げてみたいと思います。
おまけ
ちなみに「愛ちゃん」は、私の幼稚園時代の初恋の人の名前です。
小学校までひきずりました。
今や人の妻(と言っても、もう孫やひ孫もいる立派なおばあちゃんですが)です。
でも私の心の中では初恋の人のままです。
そして
「でも僕は愛ちゃんが好きだ!」
というその頃の「思い」だけは変わりません。
あくまでも「思い」だけ・・・