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困った人は、思考の癖に気づきにくいから困った。という話。
なぜ今までガジェットやスイーツとかのテーマしか書いてこなかったかというと・・・それは「面倒くさい人に捕まる可能性があるのは嫌だなあ」ということ。
ちゃんとしたご指摘などなら良いのですよ。私は博士課程まで大学院で哲学の研究をしていました。議論をすることは慣れているつもりですし、さまざまな解釈が世の中にあることはわかっているつもりなので、違う意見が出てくることや反論が出てくることは良いのです。ただ、そもそも論点を読み損ねている人が多いと、その誤解が広まってしまうので発信したくなくなるのです。
以下、自分なりに思うところです。
認識の「外」のことは、認識できない。
なんか、いきなり小難しいことを・・・と思った方もいらっしゃるでしょう。いえ、あまり難しく考えなくていいです。
表現を変えましょう。「見える範囲の外のことは、見えない。」
当たり前ですよね。言い換えると、「見えているものだけが見えている」のです。
今、僕に見えているのは、部屋の風景だけです。(こんな風景)
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この視野の中に、妻はいません。でも、妻が隣の部屋かお風呂場にいることはわかっています(信じています)。つまり、見えていないものも存在していると私たちは普通は知っています。
ところが、こんな当然のことを、つい人は忘れてしまいます。
ちょっと下品なネタですが、学生時代に友達同士で話題になった話をします。それは・・・
女性は胸を見てくる男性の視線に100%気づいている。
これを言われたことがあります。だから、女友達から「男性は視線に気をつけた方がいいよ」と言われたわけです。
この主張、ある意味で確実です。そして、根拠がありません。最初に耳にした時から違和感しかありませんでした。だって・・・大規模な実験をしたわけじゃないわけです。「自己申告」ですよね? 「だって、気づいちゃったんだもん」と言われたら、その子の心の中での事実であれば、認めるしかないでしょうよ。
簡単な分数にしてみましょう。
分子=気づいた回数、分母=気づいた回数、となるわけで、
分子/分母・・・気づいた回数/気づいた回数=1(100%)
そりゃそうなるでしょう。
主張と事実はやはり異なる。
じゃあ、上のような場合にはどうしたら統計的な事実を確かめられるのか。
100人くらいの男性に視線をリアルタイムで追跡する機器でもつけてもらい、女性とゆっくりすれ違ってもらう。その時に、対象箇所にフォーカスした視線の数を母数とします。この際に、複数の女性にも実験参加してもらう。
女性には対象箇所を見られたと思ったらクリッカーのようなものでカウントしてもらう。その回数を分子とします。
それで計算するとパーセンテージが出る。
最もシンプルな手法はこれでしょうね。それでも、問題があります。実は見られていないのに、見られたと誤解するということがあることです。表現は悪いですが、自己顕示欲が強い場合、その傾向が出てくると思います。(『みんな、私を見ている』)
これはバリエーションとしては、自分で目立った行動をとっておきながら『オイオイ!こっち見てるんじゃ、ねーよ!』とキレるヤンキーのお決まりの台詞。これは、本当に相手が見ていたかどうかという「事実」が問題ではなく、相手が「こちらを見ている」という「自己意識」を前提として振る舞っているのです。
事実じゃなくていいのです。単なる主張ですから。でもその自己認識を社会的・客観的な事実と同等と思っているので困るのです。
一緒に仕事をしていてしんどい人。
このように、事実かどうかよりも、自分の主張や主観が前提にある人と付き合うのはしんどいです
これは自戒も込めて。意外と「思い込み」している人多いですよね。
でも、それに気づかない。先ほどの分子と分母が同じである例と同様、気づいてること・理解していることが分子にも分母にもなっているからです。つまり、わからないものはわからないのです。
それに慣れてしまうと、自分が理解できないものは「不合理なものだから理解できない」とか「説明が悪いから理解できない」とかというようになり得ます。
これが上司とか、取引先とかだと困るんですよね。
一般的な社会通念として、私たちには「関係を良好に保つ」という最優先事項があります。
ところが、こういう「説明がわかりにくいんだよ!」みたいに強く言ってくる人がいると、急に周囲が余計な動きをしはじめます。
仮にこの人を「Aさん」とすると・・・周囲はこう考え始めます。関係良好な状態を保持するための関係性の阻害要因を「Aさんへの説明不足」だと捉えます。なので「Aさんの理解を促すことで阻害要因を取り除く」ことを目標として、一度説明したことでもさらに説明をしたり、謝罪するという行為に出ます。(二度手間)
本来、「理解していないAさん自身をチームから排除する」という選択肢もあるのですが、それは「関係を良好に保つ」という大前提から外れる可能性が大きいので、周囲の人は無意識にその選択肢を潰してしまいます。(上司ならなおさら。排除できませんよね。)
問題なのは、そうやって肥大化した思い込みは「思考の癖」みたいになっていて、治りにくいのです。指摘すると、キレられることもあります。
もっと厄介なのは、こうなってくると、「説明をされるまで、自分から理解しようとは思わない」という習慣がつくとか・・・ちゃんと注意事項を読まないとか事前資料を読まないとかスケジュールを確認していないとか・・・些細なことですが、事実確認を意外としなくなる。事実確認をしないから、意外な思い込みに気づく機会が少なくなる。ちょっと調べたり、見直したりすれば済むことなのに。
社内研修で不機嫌な態度をとる人を録画した話。
問題は、こういう人たちは自分が「研修対象」となると態度を硬化させることが多々あるということ。
私は研修が好きです。
なぜなら、自分の学びにつながるから。
でもそれを億劫がる人というのは、自分にとって「見たいものだけ見て、感じたいことだけ感じたい」というコンフォートゾーンに閉じこもるタイプの人です。
なので、新しいポジションに(一時的にでも)させられると不安になります。
例えば、いつも部下を教育する側の人が「教えられる側」になるとか。教員向けの研修時の教師がわかりやすいかもしれません。
私は時々、研修講師をすることがありました。
ある組織に呼ばれた時のことです。わざわざ県を跨いで(日本列島半分くらい)移動までして行った研修でした。
会場入りした瞬間、その組織のトップの方は愛想良く挨拶してくれましたが・・・研修対象の方々は非常に態度が悪かった。『こんな研修、意味あるのか?』と言わんばかり。意味あるかどうかは別としても、わざわざ来ている人に対しての敬意がないなあ・・・と思いました。ちょうど、テーマが『ICT活用』で、そこで「記録することの重要性」について話をしていました。
実は、その研修中に、研修の状況を録画していたのです。
研修を進めていくと、最初は態度が硬かった方々の半数以上が徐々に新しいことが「できる」ようになってきて、だんだん楽しそうにします。
それでもやはり一定数の方は態度を変えません。
研修後、コメントをしてもらうと、大半が『今日からがんばってやってみようかな』というようなものなのですが、最後まで『このような方法が何の役に立つのか分からない』と言った方が居ました。
そこで、『本来はこんなことはしたくないのですが・・・』と前置きした上で、録画した映像を見せました。途端にその方は『私って、こんなに態度悪かったんですか!?』と驚いておられました。鏡で自分の姿を見るように、客観視させられたからです。
かなりの荒療治ですが。
どんなことでも、自分を顧みることは大事です。でも、気づける範囲のことに気づくだけではなく、自分の認識の「外」が(常に)あるのではないか、と思うことはもっと大事だと思います。
オチはないですが、皆様が少しだけ自分以外の視点を感じていただければ幸いです。