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回廊

 男の趣味は料理だった。それも筋金入りのもので、
「こんなおいしい食材がある!」という話を聞くと、あっという間に飛び出して、その食材を手に入れるために走り回る。
 そんな調子だから、今回聞いた話も無視することなどできなかった。
「人の記憶と現実世界の波打ち際で採れる塩があるらしい」
 知り合いの言葉だった。仮にその人物をエー君と名付けるなら、エー君は続けざまにとある場所について書かれた紙を取り出したのだ。
 そこには、人の記憶と現実世界の波打ち際とやらに行くことのできる方法が記されていた。
 男はそれを見た瞬間、ありがとうと喜び、あっという間に支度を済ませてそこへと向かった。

 ***

 そこは、とある建物の中だった。入り口を開けると、一瞬でそこが異質な空間であることが分かった。
 建物の中を分断するように、境界線が引かれていたのだ。片側は現実。もう片側はおそらく、記憶。
 記憶側は波のように揺らめき、鮮やかな青を発散している。全てが青く染まり、海の底に沈んだような静寂がある。
 建物は奥まで一直線に廊下が伸びており、現実と記憶の世界同士がせめぎ合っている。今男が歩いている部分にも、当たり前のように記憶が侵食してきている。
 その透き通る青に触れるたび、遠い過去に忘れたはずだった懐かしい、切ない、喜びにあふれた、様々な記憶が蘇ってきた。
 男は実に不思議な感覚になっていた。この先に進んでいいのか、それとも進むべきではないのか。
 なにか、この現実世界とは別の、触れてはならないものに触れているような、ある種の罪悪感のようなものに、男は苛まれていた。このまま何も持ち帰らずに帰ってしまった方が。
 そう思いかけた瞬間、長い廊下の奥の方で、白く光るものが見えた。
 塩だ。男の鼓動は一気に跳ね上がった。一体どんな味がするだろう。料理に使用するとしたら、一体どんな調理方法で……。
 足が速くなる。もう少し、もう少しで、塩に辿り着ける。あと、数メートル。
 その瞬間だった。どぽん。と足元で、深い水の中に何かが落ちる音がした。落ちたのが自分の足であることに気づいたころには、すでに腹部辺りまで水に飲み込まれていた。
 潮のにおいがした。海だった。先程まで、しっかりと形を成していた床が急に全て液体に変化し、男を飲み込んでいく。
 記憶──。
 もしも記憶に自分自身が飲み込まれてしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
 記憶はあくまで、体があって初めて存在し得るもののはずで、その記憶に体が呑み込まれてしまった場合、一体……。
 男の体はほんの数秒の内に記憶の波にさらわれてしまった。
 最後に残ったのは、どうしてあの時引き返さなかったのだろうという後悔。そして、その記憶の残り香が溶けた、波の音だけだった。

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