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折り桜(ショートショート)

 折り桜とは、空気の隙間に折り込まれたような形で存在する桜のことで、普段はその姿を現すことはほとんどない。
 春になった時は、空気の匂いに気を付けておくといい。
 折り桜がある場所の空気は大抵、桜の匂いが濃くなっている。
 その桜の周囲の空間が、折り紙のようにねじ曲がるため、折り桜という呼ばれ方をしている。
 折り曲げられた空間は、折り桜ごとに大きさが異なっており、その昔、曲げられた空間の中に、桜の咲き乱れる里が丸々ひとつ収まっており、そこで長らく生活している人々までいたとのこと。

 図書館で開いた、不思議な桜に関することが書かれている本のページ。なぜそんな本を見たのか、今となってはよく分からない。それに、そこに書かれていること。本当にそんなことがあるはずないと心では思っているけれど、その一方で、そうであって欲しいと思う気持ちがある。その理由はある出来事に起因している。
 数年前、当時付き合っていた彼は、私の日常の中から突然姿を消した。
 私の恋人が居なくなったのは、ある春のこと。
 本当は、ただ私のもとから離れたかっただけなのだと思った。思い込むようにした。けれど、ほんとうにそうだったのか。

 別の職場に務めていた私たちは、休日を合わせて、その前日の退勤後からどちらかの家に遊びに行って夜はそのまま泊まる、というルーティーンを繰り返していた。
 そんなある日の朝、私は、自分の部屋で目を覚ました。
 カーテンの隙間から射す朝日が眩しくて、その眩しさの力を借りて彼に抱きつこうとした。眩しいよ、なんて言って。
 薄く開けた瞼の先に見える、白く光を反射する布団越しの背中に腕を伸ばす。なるべく優しく触れる。けれど、その接触部分には確かな感触を持たせられるように。私の存在を、押し付けにならないくらいの質量で感じられるように。
 なかなか、いつものごつ、とした筋肉の感触に触れることができないまま、腕を伸ばし続ける。けれどやっぱり、辿り着かない。
 しびれを切らした私は、重力に従って伸ばしたそれをすとんと下ろす。
 そこで気付いた。いない。本来そこにあるはずの温度が、すっぽりと抜けている。
 いつもは私よりずっと長く眠っているはずの彼が、今日はめずらしく早起きしたのだろうか。名前を呼ぶ。返事は無い。
 先ほどまで心地いい微睡みの中にあった思考が急に、空回りをきっかけに速度を上げて回り始めた。
 体を持ち上げる。思っていた以上に勢いがつき、ベッドのどこかがギ、と唸った。
 いつも通りの朝。清々しい朝日。けれど、その眩しさが今はどこか白々しい。天井の周辺に昇った水色の空気には、海の底に一人で来たみたいな、日常と切断された、孤独の気配が含まれていた。
 靴を見た。玄関の靴。置きっぱなし。どこにも行ってない? けれど、部屋のどこを探しても居ない。ベランダに出て、その下に通っている道路を見下ろした。もし万が一、彼がここから、なんてことも、可能性としてはゼロではない。けれど、いない。安堵と不安とが一緒くたに私を襲う。襲う、なんていうより、もっと曖昧で不気味な感覚だった。
 映画やドラマに登場するワンシーンは、どこか誇張されていたりする。
 もちろん焦っているけれど、いきなり街中に飛び出したりしないし、取り乱したりもしない。その代わり、ずっと生々しく、心臓の鼓動ばかりを激しくする。
 彼に何度も連絡はしたが、繋がらない。
 二人の共通の知り合いに連絡する。まだ早い時間だからか、連絡が付かない。あまり長い時間コールするのも申し訳なく、早めに切る。
 試した行動の種類や数が増えるほど、不安は大きくなっていく。
 そんなことをしても無駄だろうというような行動が増え、意味もなく、何とかしてくれそうな人はいないだろうかと連絡先一覧を流し見る。
 彼の両親とはまだ会っていない。次の休みに会ってもらいたいと言っていた彼の表情を思い出す。少し恥ずかしそうにしていた。はじめて彼の家に泊まった日の朝、朝食後のコーヒーを飲みながら、恥ずかしい昔話をして耳まで真っ赤にしていた、あの時の表情に少し似ていた。
 今の自分を作っている過去を、その部分ひとつずつを誰かに打ち明ける時の、なんとも言えない表情だった。それを私は、とても愛おしく思った。
 懐かしい記憶が、瞼の奥、水晶体の内側で揺らいでいる。

 その時の、部屋の中の匂いを覚えている。
 仄かに甘い、桜の香りがした。

 折りたたまれた桜の木に巻き込まれた空間というのは、一体どうなっているのだろう。
 昔読んだ小説の中でも似たような”世界”に関する会話があった。
 世界の内側に、別の世界が折り畳まれているのかもしれない、みたいなものだった気がする。やけに大人びた小学生の冒険。その瞳に映る景色は、いつでも最高純度の輝きを放っていた。
 世界が折り畳まれている。世界の裏側、なんて、そんなものあるはずがない。
 あるはずがないから憧れ、夢を見る。だからこそその夢は、一層輝く。
 けれど、もしもその夢が実際に現実に起こったら、私は一体どんな反応をするのだろう。
 泣いて喜ぶだろうか。そのまま呆然と立ち尽くすか。恐れおののいて、震えあがってしまうだろうか。
 例えばもし、その折り畳まれた世界の中に彼が巻き込まれてしまったのだとしたら。そのせいで、彼がこの世界から居なくなってしまったのだとしたら。
 そんな馬鹿げた想像をする。年甲斐もなく。
 私は、ただ振られただけ。そう、それだけのことだ。けれど。
 そろそろ一緒に暮らしたいね、と言ったのは彼の方からだった。もうそろそろそんな話を切り出そうかしら、と思っていた時にそれを切り出されたものだから、思わず大笑いしてしまったのを思い出す。隣で何なに、どうしたの、と言いながら首を傾げていた彼も。嘘だったのだろうか。
 嫌な想像をしても、それを確かめる術なんて持っていない。
 ただ私は、真実を知りたいと思った。彼に見えていた景色がどんなものだったのか、知りたいと思った。

 けれど結局、日常は当たり前みたいに過ぎ去っていき、何度かの春が巡った。私だけが世間から置いていかれているような心地になり、春が来るのが怖くなったりもした。
 図書館から出る。さきほどの本の記載が気になる。折り桜。本当にそんなものが存在するのだろうか。ただの、昔の人の空想なのではないのか。
 科学によって世界の仕組みが照明され始める前の時代には、そういった、科学的根拠に基づかない迷信なり、想像がそこらじゅうにあっただろうし。 
 歩く地面の感触は、いつも以上にかたい。
 ため息を吐いて、おおきく吸い込む。
 ふと、桜の香りが濃くなった気がして、はっとする。
 意味なんて無いと分かっていても、つい辺りを見回してしまう。
 空気の隙間。それこそ、酸素分子と水素分子との間にある、と思えるほどにほんの小さな隙間に、何かが光ったように見えた。それは、淡い桃色をした裂け目のようで、疑いながらも私は、その些細な空気の隙間にそっと指先を伸ばす。

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