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いさ菜(ショートショート)
おじいちゃんは漁師だ。
……漁師だったはずだ。
なぜそんなことを考えているのか。今、目の前のおじいちゃんが持っているものが、その原因だ。
手の平の上には野菜。葉物野菜がのっかっている。
「野菜?」
帰宅直後、僕は学校のカバンを下ろしながら聞く。
おじいちゃんは、すでに寝間着に着替えている。漁師の仕事はおおよそ午前中に一段落するらしい。沿岸漁業をしているらしい。
日に焼けてなのか、年相応の変化なのか、シワクチャになった顔を、さらにシワクチャにするように笑って答える。
「おう、今日の成果だ」
今日の成果? それはおかしい。だって、おじいちゃんは漁師だ。漁師は野菜の収穫などしない。それは農家の仕事だ。加えて、おじいちゃんは趣味で畑仕事などもやっていない。
「釣ったってこと?」僕は聞く。
そんなことあるはずがないけれど、なんとなくの流れで聞いた。
「いや、泳いでたのがたまたま網にかかったんだ」
泳いでいた? 僕の頭は余計に混乱する。
泳いでいた。葉物野菜が?
そんな僕の表情をみて、おじいちゃんはありゃ、と言った。
「いさ菜、って知らんかったか?」
いさな? 勇魚(いさな)と言えば鯨のことだったはずだけれど。
「鯨のこと?」
「いや、そうなんだけどそうじゃなくて。いさなの“な“は菜葉の菜なんだよ。鯨みたいな形に丸まるからこんな名前らしいけれど」
おじいちゃんの手のひらの上のそれは、確かに、見ようによっては鯨に見えなくもない。
「実際の鯨の声を栄養にして大きくなるらしくてな。時々こんなふうにひょっこりと見つかるんだ」
「へえ……」僕はその、小さな鯨の姿を眺める。葉物野菜が海中を泳ぐ姿を思い浮かべる。
鯨の声には、野菜に意識を宿らせる力があるのか?
そんなことを考えながら、なおも緑色のそれを眺める。
「けどまあ、なんとなく分かる気がするんだよ」
「分かるって?」
「ただの葉物野菜に、鯨の声で魂が宿る理由っていうのか」
たった今自分が考えていたようなことを言うものだから、僕は少し驚いて、う、うん。と声が漏れた。
「鯨の声を聞くと、なんて言うのか、魂みたいなのが奮い立つというか、突き動かされるというか」
「へえ……」
「まあ、そんな感じがするんだよ」
この野菜が一体どんな土地で生まれたのか、どんなふうに海まで辿り着き、生長し、この姿になったのか。
分からないことはたくさんあるけれど、なぜかおじいちゃんの言葉には妙な説得力があるような気がした。