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月光コンポート(ショートショート)
ナイフとフォークで、焼きたてのアップルパイをサクサクと切り分ける。
モーセが海を割る景色をイメージしながら。
実際のところ、モーセというのが何者なのか、何をした人なのかは知らない。ただ、モーセという人物イコール海を割ったという話をかつて聞いたことがあるだけだ。
イメージの中での海のようには、綺麗に割れなかった切り口。けれど、そこからはシナモンの甘い香りがころころと転がり出てくる。
胸いっぱいに吸い込むだけで、幸福に満たされる。
「いい匂い……」
私はそっとつぶやく。喫茶店の中には、私と友達のA。カウンターでは店主が食器を磨いている。
「ね、おいしそう」友人のAも、その匂いを嗅ぎながら、表情をほころばせる。
二人ともノンカフェインのコーヒー。週に数回、一日の最後、私たちはこの喫茶店に立ち寄る。そうして、一日の振り返りや、日々の情報共有や、もろもろについて話す。疲れを吹き飛ばすための大切な時間だ。
で、どうなの? からはじまる、幾つかの話題。
仕事の事だったり、恋愛事情だったり、将来に対するぼんやりとした不安だったり。ときどき過去にも話したかな、と思うようなことも話したりするけれど、それはそれで一向に構わなかったりする。前に話した時と、今話すのでは、話題に対する捉え方が変わったりするから。
丁度、食べ物を栄養にして、体が代謝するのと同じように、過去の私と今の私では、同じ言葉の中にも異なるニュアンスが混ざることがあるのだ。それはAも同じで、その点で私たちは、似た景色を共有しているともいえる。勝手にそう思っているだけではあるけれど。
「それにしても」彼女は、一段落した会話の後で、コーヒーを啜りながら言う。
「シナモンの香りっていいよね」
「分かる、この香り好きなんだよね」私は彼女の意見に同意する。じっさい、私自身も本当に好きな香りだ。
話しながら少しずつ食べていたアップルパイは、最初ほどのあたたかさは無くなっているものの、その代わり、周囲にシナモンの良い香りを残してくれた。私はそれに加えて、爽やかなリンゴの香りも楽しんでいる訳だけれど。
「休みの前日の夜に嗅ぐ香りとしては最強だよね」
「たしかにそうかも」
私は、Aの言い分に笑いながら答える。普段の料理には使わない。加えて、あまりスパイスの入ったものを食べない私からしたら、結構特別感がある。気持ちが上を向く気がするのだ。
「そういってもらえてうれしいです」
私たちの会話の横から、ひょこっと顔を出したのは、この喫茶店の店主だった。フクロウの頭をした人。人? という言い方であっているかは分からないが。
「いえいえ、どうしたんですか?」
「いえ、大したことではないのですが、今ちょうど、新しいメニューを考案中で、それを試していただいてまして」試していただいている、というのはお客さんにという意味だろう。
「え、本当ですか!」
Aはその話に、すぐさま反応する。彼女の会話における反応速度の初速は素晴らしく、音速を越えているのではと思うほどだ。
これはもちろんほめている。断じて、けなしてなどいない。過去に一度その話をしたら、馬鹿にしてるな? この。と、二の腕の辺りを小突かれたけれど。
「こちらです。アップルパイを作るついで、と言ったら何ですが、少し作ってみたものです」
差し出されたのは、リンゴのコンポートだった。まっしろいお皿の上で、薄緑に光っている。イルミネーションみたいで綺麗だと思った。
「わ、きれい」
「ありがとうございます」
お礼をいいながら、店主は話す。
「このコンポートは、りんごを月光に浸して作ったんです。どちらかというと、爽やかさが強く出ているかと思います」
その話を聞きながらも、Aはすでにコンポートをフォークで刺して口許に運んでいる。
「ん、おいしい。本当だ。爽やかですね」
そんな風に答える声も、心なしか爽やかだ。私も彼女に続いて一口食べてみる。
「本当だ。爽やか」
Aは私の声に、ぶんぶんと激しく首肯する。新しく食べたコンポートがまだ口の中に残っているためか、しゃべりはしない。
店主は微笑んで、ごゆっくり、と言って、私たちの座る席から離れていく。
口の中でくしゅくしゅと崩れるりんごの感触を確かめながら、一日の疲れを溶かし出していく。明日は一体何をして過ごそう。そんなことを考えながら、夜が更けるのに身を任せる。
明日が来るのが楽しみで、自然と身体が揺れてしまう自分がいるのに気付いた。