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紫陽蝶(ショートショート)

 道に迷ってしまった。僕は今、深い森の中を歩いている。
 先ほどまでジメジメと蒸し暑かったはずの空気が、急に冷たくなってきた。
 そのせいか、汗がひんやりと肌に凍みる。
 どこかの方向へ歩いていれば、いつか抜け出せるだろうと思っているけれど、一向に終わりが見えない。
 足を酷使しているせいか、指先が痛い。歩くことでしか現状から抜け出せないことは分かっているけれど、どうにも気が進まない。惰性でなんとか行動しているせいだろう。

 日々の生活の疲れを癒すために、ハイキングに繰り出したはずなのに、余計に疲れてしまっている。情けない話だ。
 一人で来るんじゃなかったな、と、今更後悔する。けれど人っ子一人居ない森の中でそんなことを考えても意味がない。惰性の続きで歩く。
 木々の隙間から覗く空は、着々と夜に向かって変色していく。夕暮れの明るいオレンジは、今日はどこにも見当たらない。ずっと青い色の延長が続いている。そうして引き伸ばされた青色の先に、夜の暗さが待ち構えている。
 どうしよう。どこまで歩いても、ここから抜け出すことができない。
 このままでは、一生ここから出られないのでは。
 そんなことあるはずない、と頭の片隅では分かっているけれど、空腹と疲労感でろくな思考ができない。それでも、小さな小さな一歩を踏み出す。

 森の中が、陽が落ちる直前の青色に満たされたときのことだった。
 目の前に沢山の紫陽花が咲いているのを見つけた。
 薄暗い景色の中でもはっきりと分かるくらい鮮やかな色。
「なんでこんなところに……」
 過度な疲労からか、頭の中の思考が口から洩れる。別に誰がいる訳でもないので、構わない。
 呟きながら、色とりどりの紫陽花に手を伸ばす。すると──。
 紫陽花の一束がふわりと広がる。続けて、一斉に飛び散った。
 うぐう、だか、うわ、だか、言葉にならない声で叫ぶ。

 それはどうやら紫陽花では無いようだった。
 飛び散ったそれは、蝶だった。ベニシジミとかに近い形の翅をしていた。
 そして驚いたことに、紫陽花に見えていたものの全てが、その蝶だった。
 一斉に飛び上がった蝶たちは、僕の周りを何度か飛び回った後で、どこかへ向かって飛び始めた。
 なんとなくその蝶の群れについて来いと言われているような気がして、後を追うことにした。
 足元の草丈は徐々に低くなっていき、荒れた地面は獣道に。そして舗装された道に変わっていった。
 やがて、見覚えのある場所まで戻ってきた。
 ハイキングコースの入り口だった。ここへ戻ってくるまでにすでに日は暮れていたけれど、蝶たちが居てくれたおかげで助かった。
 彼らは最後に、何度か僕の周りで円を描くように飛んだ後、どこかへ消え去ってしまった。

 あれからずいぶん経った。
 梅雨の時期、街を彩る紫陽花を見るたびに、あの蝶の群れは一体何だったのだろう、と考える。

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