東日本大震災から10年 受け継いでいかなくていけない思い そして祖父の死Day9
3月11日2時46分
まず初めに東日本大震災で亡くなられた方へ
ご冥福をお祈りいたします。
この日時と時間を聞いてわからない人はいないと思います。東日本大震災です。この地震では多くの方の命がなくなりました。あれから10年。時がたつのは本当に早いと感じています。
当時の僕は小学6年生、小学生ながらあの当時の記憶は今でも鮮明に残っています。パソコンの授業を受けているとき、その数日前からいくつかの余震があり、この地震が起きた時「地震か・・・」
これくらいの気持ちでした。しかし、この地震が後に大災害だと気づかされるのです。今までに感じたことのないくらい大きな揺れを感じ経っていることが困難でした。あの数十秒間というのは本当に何が起きたのかわからないような感じでした。
パソコン室から教室に変えると、明らかに先生の対応や顔色が今までとは全く違うものでした。
「防災頭巾をかぶりなさい」。
大きな声で言う先生の姿を見て今回は何かが違う。そう感じ取りました。生徒全員が校庭に集合させられて、親を迎えを待つことに。数十分後親が迎えに来て、家に帰りテレビをつけると今まで見たことのないような光景を目の当たりにしたのです。
街の家や、車が流されている。船が流され街をを通っている。
今までに感じたことのない恐怖とこれが夢であってほしいと思うばかりでした。
実際この記事を書こうかどうか迷ってしまいました。本当に苦労している人に対して失礼ではないのか。これを見てまた、思い出してしまう人がいるのではないのか。でも書く決断した一つの理由があります。
それは、
この大災害が二度と起こらないように、ここに書き記しておくことが未来につながる。
そう感じたからです。僕は阪神淡路大震災は耳人伝えでしか、聞いたことがありません。僕が生まれる前の災害はすべてそうです。
戦争のことも祖父にいたことがありますが、あまりのすごさに半分疑ってしまうような感じでした。きっとこれから生まれてくる子供たちも同じことを感じるはずです。
経験したことないからわからない。
日本という国は、災害が多い国と言われています。次どんな災害が起こるかわかりません。東日本大震災を経験した人たちは、災害の怖さがどのくらいなのかを知っているため、対策をとれると思いますが、経験してない子供たちにとっては、わからないと思います。
僕の記事を読んでもう一度自然災害の恐ろしさを考え直し、これからの未来の子供たちに伝えていきましょう。
僕の記事自体そんなに大きな影響力を持てないかもしれませんが、これを読んだ人が誰かに伝え、その誰かが、またほかの誰かに伝える。
そうして伝え続けていくことで、もし次地震やほかの震災が来た時に犠牲者を出さずに済むと思います。
未来につないでいく
人間一人の力では、微々たるものかもしれませんが、束になればどんな困難にも立ち向かっていけると思います。
共に頑張りましょう
僕の中での3月11日はこれだけではありません。
3年後の中学3年生の3月11日その日は僕の高校入試の合格発表の日でした。僕には、仲のいい祖父がいました。戦争の話や、いろいろなことを僕は祖父から教えてもらいました。
僕が祖父の異変に気がついてのは中学3年の10月ごろ。いつも通り、祖父の家へ遊びに行くとある異変に気が付きました。明らかに顔色がおかしかったのです。
祖父はお酒が大好きだったので、母は「お酒の飲みすぎじゃない」と言っていましたが、僕はそうは思いませんでした。それから数週間後祖父が入院医師から言われた言葉は、
「残念ながら余命数カ月です」
当時すでに祖母と祖父をなくしており、「どうしてまた」「何で自分の周りだけ」と思う気持ちばかりでした。
高校入試勉強の間に、何度か祖父に会いに行きました。長いときは数時間話したりしました。その時の祖父の笑顔を思い返すと今でも「一緒に話したり、お酒を飲みたいな」と思ってしまします。
祖父の様態が悪化したのは僕の高校入試当日、あと何日持つかわからないと言われ、試験後すぐに祖父のもとへ急ぎました。そこには、ぐったりと倒れこみ、会話もまともにできない、今まで見たことない祖父がいました。
驚きのあまり僕はなんて声をかければいいのかわかりませんでしたが、
「来たよ」と声をかけると小さくうなずいてくれました。
合格発表前日、家族みんなで祖父の見舞いに行きましたが、1週間前より元気になっていました。「よかった!!まだ元気じゃん」そう母に伝えると、母は首を横に振って小さな声でこう言いました
「前より強い薬を売ってるからこれは一時的なもの、山は今日の夜か明日だって」
まさか。こんなに元気なんだから。お見舞いに行った後家に帰る途中祖父の様態が悪化したと連絡が入り再び病院へ。苦しそうにする祖父を見せられないと僕は家に帰るように言われました。
心配が続く中高校の入学試験合格発表当日。無事合格した僕はすぐに母に
「じいちゃんに伝えて」とラインを入れました。それから、数時間後母から一通のらいが飛んできて
「おじいちゃんが亡くなった。でもね、合格したこと伝えたらうなずいてたよ。よかったね」そう言われ、僕は涙が止まらくなってしましました。
亡くなった後、僕の祖父は市役所で管理職をやっていた話や、同僚から慕われていた話を母や、祖父の知人から聞きました。
「すごい人だったのか」そう思いましたが、祖父は僕に一切自慢することはありませんでした。
あれから7年、
「元気にしてますか。僕はもうお酒が飲める年になりました。僕は、今この世界で一生懸命生きて燃え尽きてからおじいちゃんのいる世界へ行きます。その時は、一緒にお酒を飲みましょう」
どうかこの言葉が届いていますように。
3月11日多くの人にとって忘れられない一日は僕自身にとっても忘れられない一日です。震災に合われた方々や、じいちゃんの分までこの世界で必死に生きていきたいと思います。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
これから墓参りに行ってきます。
どうかこれを読んでくださっている皆様が幸せでありますように。
以上