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やれることとやれないこと。

最近、50代半ばを過ぎて思うことがある。

ある親友と電話で話をすることがあるし、心の病の環境などで他の患者にも感じることではあるが、やれないことはやれないのはその人の特質だからどうにもならないけども、やれることまでやらないという習慣を何故あなたは身につけたのですか?と問いたいところはある。たぶん周りの人間に流されてのことだと思うので、ほぼ同情はしない。

自分の場合は、心の病に罹ったものの、自分のやれることは自分なりに精一杯やってきた自負はあるし、自分なりに積み重ねてきたものもある。立場的にそれを否定されると弱腰にならずに相手を否定にかかる。それくらいの努力は続けてきたつもりだ。

ところが親友ときたら、彼がなぜ国立大学に進学しながら勉学を捨てたのか、その理由がさっぱり分からない。病気によるものなら、病気が回復するに従って知的好奇心も回復して当然だと思うがそうではないようだ。彼の場合両親から言われて猛勉強して国立大学に入学して、それが嫌だったとか言っていたな。普通は誰もがそうやって国公立大学に入学している訳だから目も当てられない。

国立大学に入学したはずの彼が、知識で短大卒の僕に楽に負けてしまうのだから、最近の学問否定、読書否定の世間の風潮には本当にまいる。少なくとも国立大学に入学したのならせめて講義に出席したうえで仕方がなく止めろよな実際、とは言いたいものだ。その彼が絵本を読んでみたいと言ったのには噴飯しそうになったが、NHKラジオで絵本を大人に勧める馬鹿なコメンテーターがいるから困った話だ。

とはいうものの、この文章の目的はどんな状況に置かれたとしてもできることはやりましょうという半分励ましの内容であって、誰かを糾弾しようという目的ではないのである。

ではどういうことかというと、スマホやゲームやバイトに打ち興じる時間があったら、その分を知識を増やすとか技能を高めるとかの実際の努力に費やして欲しい。何なら創作活動でも良いと思う。そういう自分を高めようとする姿勢がのちのちの違いとなって現れるし、何なら学生時代に恩師と呼べる先生を二三人見つけておくのが良い。禅で言う薫習といって、先生の言動から必ず良いものが自分に移るということは言っておきたい。朱に交われば赤くなるということの学校版だな。

まあ、親友の彼に今さら読書を進めても40代後半の彼は聞く耳を持たない。20数年間どういう知的刺激を受けて過ごしてきたのかね?そういうのがまったくないのが世間の相場みたいだから仕方がないのかね。

お前はどうなんだ?と言われそうだが、読書はせっせと10歳頃から40年は続けているし、絵画教室にも三年通った。PCはプログラミング以外はほぼ扱えるし、あとは俳句と数学の学び直しぐらいかな。noteは息を吸うように書けるし。まあ、問題はタイトルにもあるように、やれないことはやれないのは人間の特質なので仕方がないのだが、やれることまでやらないのは人生の大きな損失だと思っているので、ちょっと緩んでしまう自分の習慣をもうちょっと何とかしないとなと思ったりしている。持病を言い訳にはしたくないし。

やっぱり世間や他人に流されて安易な人生を送るよりも、ダメ元でもいいから一歩ずつでも前に進んでいくような人生を、若い人に限らずどなたでも過ごしてもらいたいと思うのだ。最初の一歩というか初診忘れるべからず。踏み出すこと、歩き続けることで見える風景も変わってくるということだ。

そういえば、昨日立ち上がった精神保険福祉関連のChange.orgのネット署名も賛同者が20名に達した。徐々に増えていくと思うし、以前の署名は500人前後まで賛同者が集まったので、少しでも誰かに影響を及ぼせれば自分の勝ちかな?と思ったりしている。ネット署名なんてスマホ一台で楽に作れる。何なら文章はAIの出力を借りてもいい。一歩踏み出すことが社会に影響を与えられるかどうかは自分が始めるかどうかなのだ。

こういう事はどのジャンルでも言えて、勉学に限らず、始めたらコツコツとやる続ける。そのことが自分を陶冶してくれると本当に感じている。やっぱり尊敬できる大人を見つけるのも大事かな。見つからなかったら本の著者でもいい。自己を変えるような影響を与えてくれると思うよ。

自分も反省しないといけないが、やれることはやらないと人生の時間はあっという間に尽きてしまう。つまりはそういうことなんだろうな。


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山本葉舟
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