坐禅は美しい!?
芸術の美しさ
どこかに流れる音楽を耳にしたり、どこかの美術館に行って芸術家の絵画を観たりしたとき「この音楽は素晴らしいなあ」とか「この絵はきれいだなあ」といった思いで心が満たされます.自然の中で山に登ったり、海を眺めたりしても同じような喜びで心が満たされることがあります.その満足感とは何でしょうか?
私たちの社会での生活は常に欲望と理性の葛藤の中にあります.例えば「眠たいな、だけど明日までに準備する仕事が残っているから仕事をしないと」とか「お菓子を食べたいな、だけど食べるとカロリーの摂りすぎになるな」とか日常の一つひとつの意思決定が欲望と理性の葛藤の中にあります.そして常に私たちはその葛藤の中で選択をしています.
一般的に私たちが喜びや満足感を感じることができるのは、睡眠欲、食欲、性欲といった感覚的な欲望が満たされる時ともう一つは仕事が上手くいったとか資格試験に合格したなど理性的な達成感による満足感の二つに分類できます.つまり欲望か理性のどちらかが優位になったとき、一般的には満足感や喜びを感じるのです.
ところが例えばオルセー美術館に行ってモネ、マネ、ルノワールの絵画を観て「ああ、素晴らしい!」と心が満たされるのは、自分の感覚的な欲望が満たされる満足感でもないし、一方で「この時代の印象派のこの色の選択が…」といったようにアタマで理性的に物を考えて心が満たされる訳ではありません.反対に芸術に触れている時間は自分の中にある欲望と理性の葛藤とその葛藤の中で常にどちらかの選択を迫られる自分を一時的に解放できる時間であるからこそ「素晴らしい」と感動するのかもしれません.
フランスの哲学教師であるシャルル・ペパン氏は「美は内的葛藤を沈めてくれる」と述べています.具体的にはフロイトを引用しながら、社会の中で生きる私たちは本来持っている暴力性や性的衝動を「文化」の禁忌や社会的な価値観によって抑圧しているが、芸術はその抑圧された欲動の「はけ口」になっていると説明しています.その結果「社会的な自我」と「抑圧された欲動」の対立を解消するからこそ芸術によって美的感動を得ると結論を述べています.
坐禅の時間
私たちが坐禅をしたとき、どうしてまた坐禅をしたいと思うのでしょうか?姿勢が良くなるとか、呼吸が長くなるとか具体的なメリットがあるからでしょうか?私見によれば、坐禅の時間は心のどこかで「この音楽は素晴らしいなあ」とか「この絵はきれいだなあ」と同じような感動があるように感じます.それは坐禅の時間が欲望と理性の狭間に生きて常に選択を迫られる自分自身から一時的に解放される時間だからではないでしょうか.道元禅師が「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず…」と述べている部分も同じように解釈できると思います.その満足感は欲望または知性的な満足感とは異なるように感じます.今回は坐禅をして感じたことを美的感動と関連づけて考えてみました.また機会があれば、このテーマについて深めていきたいと思います.