グレート・スピリッツに礼拝する
禅堂の伽藍のあちらこちらには仏像やお札がお祀りされています.中心となる禅堂には文殊菩薩像、庫裡の玄関には元三大師の名で知られる良源と「立春大吉」のお札、東司(お手洗い)には烏枢沙摩明王のお札、そして浴司には跋陀婆羅菩薩のお札、火を使うお風呂の焚き口には愛宕神社の「火の要心」のお札などそれぞれの場所に因んだ仏像やお札がお祀りされています.もちろん、それぞれの場所を仏像やお札に守ってもらうのがお札などをお祀りしている一つの理由ですが、もう一つには禅堂で修行する参禅者や参拝者がそれぞれの場所で礼拝するようになっています.禅堂に入る時に文殊菩薩にペコリ、お手洗いに行く際に烏枢沙摩明王のお札にペコリ、お風呂に入る際にも脱衣場で跋陀婆羅菩薩のお札にペコリ…といった具合にどこに行くにもまず合掌と礼拝をします.以前、私(雪隠)が安泰寺や永平寺といった修行道場で禅修行していた時も、それぞれの場所や建物に仏像などがお祀りされていて、作法として合掌礼拝をしたものです.
では、それぞれの場所で合掌礼拝をするのはなぜでしょうか.
まず「礼拝」とは何でしょうか.道元禅師の傘松道詠の中には禮拝という題名で次のような道歌があります.
この道歌で表現されているのは、雪一面の真っ白の白銀の世界と全く一枚となったしらさぎの姿です.本来は雪景色と白鷺という二つのものがピタッと一致している、その様子がここには詠われています.白鷺が自分の姿を消して、雪景色に同化することは、白鷺が自由に鳴いたり飛んだりできる自分の能力を放棄して、全てを投げ出してじっとしている姿を意味します.この道歌の題名が禮拝(礼拝)ということから推測すると、礼拝という行為には自分の能力を一旦放棄して地水火風空に全てを任せる、という意味があります.
禅堂の伽藍のそれぞれの場所に入ってまず合掌礼拝するのは、日々の生活の中で言葉を使ったり、道具を使ったりして、ややもすれば自分達の生活は自分達だけで作っているという人間の傲慢が強くなり、感謝の気持ちを忘れそうな日常生活の中で「それでもやはり私たちは自分達の能力ではどうすることもできない、太陽や水、大地、自然の中で生かされている」ということを思い起こさせる機会となります.「思い起こさせる機会」というよりも合掌礼拝をするという行為そのものが自分自身を放り出して、祈りそのものになります.仏教には山川草木悉皆成仏という言葉がありますが、かつては仏教の文脈だけではなく、アメリカのインディアンやオーストラリアのアボリジニー、北海道のアイヌなどの先住民たちは森羅万象の全てに宿る魂を「グレートスピリッツ」と名づけ、大地、森羅万象に祈りを捧げました.とはいえ合掌礼拝する際に「感謝、感謝、有難い!」と常に念じる必要はありません.自然体で合掌礼拝をすれば良いのです.私たちの心と身体は繋がっていて、心身一如ですから身体で礼拝すると必ず心にも影響が出てきます.
礼拝とは、自分の能力を一旦自己を放棄して地水火風空に全てを任せると先ほど述べましたが、これは坐禅にも通じるものがあります.坐禅も人間の能力(言語、二足歩行、道具を利用した行為など)を放棄して坐蒲の上で坐ることです.坐禅も一種の礼拝の形なのです.
伽藍のそれぞれの場所に入室する際に合掌礼拝をする、そうすることで禅修行が坐禅だけではなく、食事や掃除や作務、お手洗いやお風呂に至るまで全人的な修行となるのです.毎回、各場所で特別な思いでお祈りを捧げなくても形として合掌礼拝をペコリとする、そうすることで日常生活が少しづつしかし着実に修行になっていきます.
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