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よむわたし3)記憶のざわめきを「ことば」にしたくなる

自炊者になるための26週 三浦哲哉

三浦氏は「本書は自炊の入門書です」と冒頭に記しているし、タイトルにもあるように「料理がしたくなる本」として書かれた。が、しかし、レシピ以外の記述がものすごいのである。例えば下記の文

さて、においとは何でしょうか。(略)日本語の「におい」は、かつて「丹穂ひ」ないし「丹秀ひ」と書いたそうです。「丹」は赤色のことで、穂は「ぬきんでて現れている」の意味(『日本語源大辞典』)。動詞の「におう」は「赤く色づく」を意味したらしい(『時代別国語大辞典』)。
つまり「におい」は、その語源において視覚的な際立ちのことを指しました。(略)背景から浮かび上がること。地から図が現れ出ること。やがてそれが嗅覚的体験としての「におい」に限定されるようになったというわけです。(略)においは、現れ出る何かである。さらにいえば、現れ出ることによって意識される何かである。

自炊者になるための26週

自分は表現するすべての事柄にあてはまるなぁと感動してしまった。目に見えない「におい」をえがきたいのである(多分、自分が嗅覚をメインに生きているからだと思う)それから下記の文なんて、私にとってはそのまんま短歌の作り方として納得してしまった一文。

風味は映像である
食べ物は、その風味(主ににおい)を媒介して何かを映す「映像」である。そのようにいうことはできないでしょうか。たとえば、こんぶやにぼしを抽出しただしは、その風味に媒介されて、それが元あった海を映す。

風味パターン
二つ目は、においの組み合わせの「パターン」によって、遠くの何かが映るという場合です。(略)福島県には「いかにんじん」という郷土料理があります。(略)「いかにんじん」を食べると(略)正月の雰囲気を思い出します。(略)するめとにんじんという組み合わせの「パターン」が(略)「類似」していれば、それでじゅうぶん感動できます。

自炊者になるための26週

極めつけは下記の文

青菜のおひたしは海のさざなみのように
ある青菜のおひたしは、これまで食べた無数の青菜のおひたしの記憶、鮮明なものも曖昧なものも、もうかなりかすれてしまった記憶もあるでしょうが、それらすべての記憶のざわめきの中からにおい立ってる。(略)その違いによって、全体としては、ゆらいでいる。

自炊者になるための26週

これなんて、料理本の域を超えて文学として成り立っている気がする。あぁ、記憶のざわめきを「ことば」にしたいものだよと切に思ってしまった。

こっそりの追記
私は、三浦氏の「食べたくなる本」にかなり感銘をうけたので大層ひいき目が入った記事なのをご了承ください。
こっそり言うと、料理本としてはなかなか再現性が厳しいなぁと思う部分が多々ある。これは経済感覚の違いもあるような気がする。味に関しては、私はカツ代派である。ここだけの話。

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