小学1年の壁ー発達障害の我が家の場合ー

小1の壁とは

 幼稚園・保育園から小学校へ入学する際に話題となるのが「小1の壁」。通常は学童保育の利用の可否や預かり時間、長期休みへの対応やPTA活動などによる変化に対応できるか、という問題をイメージするだろう。我が家ももれなく壁にぶち当たり、働き方を変えるきっかけになった。しかしそれ以上に困惑したのが、子本人の変化だ。

入学前の下準備

 私はADHDの診断を受けている。ワーキングメモリが低く、WAISⅢの結果は高低差35とお墨付き。片付けはできず部屋は常に散らかっているし、遅刻や忘れ物、提出物の期限切れも常連として35年生きてきた(当時)。娘も発達障害ではないかと疑ったのは保育園年長。お絵描きの時間が終わってお外遊びの時間になると、「まだやりたかった」と気持ちの切り替えができず、ひとり端っこで泣きながら拗ねていた。プール活動の時間には一人だけ時間内に着替えることができず不参加、なんてこともあった。
 入学準備の書類の束の中に「少しでも気になることがあれば、ご連絡下さい」の一文を見つけ、勢いで電話をかけた。数日後、小学校と話し合いの場が持たれた。「娘は多分発達障害があります。入学後、すんなり集団行動できないと思います。」と伝え、保育園での困りごとや対応、小学校入学後の懸念事項などを話した。

保育園から小学校へ

 保育園から小学校に入学し、環境は一変した。各年齢1クラスしかない小規模な保育園。娘の保育園の年長クラスは特に穏やかな子しかおらず、暴力や騒音とはかけ離れていた。入学後から市内一の児童数の小学校へ入学し、クラスには30人以上が詰め込まれた。同じ保育園からの入学者は他に男児がひとりだけ。環境一変かつアウェーの小学校生活に突入した。いや、正確には突入前。入学前の学童1日目にして男児に暴力を受け、早速「もう行きたくない」が始まった。残りの入学式までの数日は義母に預けることで難を凌いだ。(入学式が終われば学童の人数も増えるし、環境も変わるでしょ)

 いざふたを開けると、学童で娘に暴力を振るった男児は隣の席だった。詰んだ。恐怖の毎日が始まった。初日から先生への連絡ノートはびっしりだった。不安な幕開けとなった学校生活は、隣の男児との関係性は案外悪くなく、問題は娘自身にあった。

不安感、しんどさの始まり

 この先の時系列はもうよくわからない。不安からくるものなのか、登校班の集合場所まで送っていったあと、私の手を離さない。歩道橋がこわくて仕方ない。付き添い登校の始まりである。赤ちゃんのころから手放さなかった黄色のアンパンマンの毛布を学校に持っていくようになった。登校班で行ったはずなのに、一人で帰ってきてしまった。休み時間が終わるチャイムで戻って来ず、先生方が探し回ることもあった。たくさんの人の声や物音がつらく、イヤーマフを持たせて対応した。なにもなくてもシクシク泣く。教室でつらくなったときは片隅で毛布をかぶりクールタイムを作っていたと担任に聞いた。

失踪

 6月下旬の金曜日、習い事まで時間がないから下校班で下校して、おうちで留守番をする約束だった。仕事終わりから20分ほどお家で待っていてもらう予定だった。小1ならできるだろうと甘く見ていた。
 おうちについたらチャイムをならして、鍵を出して「ただいま」と言って入る。鍵を閉める。家の電話から母の携帯へ連絡。電話に出なくてもすぐかけ直すから、そのまま待っててね、という約束だった。
 実際の娘はこうだった。帰宅後無事家に入れた娘は、母の携帯に着信を残す。ゲームとおやつをバッグにつめ、近所のお友達の家(まだ母同士そこまで親しくない)のインターホンを鳴らし、遊ぼうとする。そこでママ友から電話が来て状況を知る。「お友達は遊べないし、もうすぐ帰るから、家で待っててって伝えて」とお願いし、急いで車を走らせ家に着くと、そこには鍵が開けっ放しの玄関に放り投げられたランドセル、散らばったスニーカー。家の中を探してみるけど娘はいない。鍵についたAirTagもランドセルにつきっぱなしだ。
 よくみると、お気に入りのお出かけ用ブーツと自転車がない。これは、まずい。いないぞ。ママ友にも電話して一緒にいないことを確認。急いで自転車で近所を探し回った。10分ほどで諦めて今度は車で探した。近隣を回って、ちょっと大きめの公園を一周してみるも、いない。あと5分探して見つからなかったら、仕事中の夫と義母にも連絡して大捜索か、と思ったその時、見えた。アリエルの補助輪付きの自転車とヘルメット。

 「ママが保育園に行ったと思ったから、保育園に行こうとしたけど、わからなくて戻ってきた」と言った。家から保育園までは交通量の多い国道を10分ほど走った先を1回だけ曲がったところにある。とても小1の女の子が補助輪付き自転車で行ける場所ではない。家で待っている、それだけのことができなくて、大胆にも保育園までママに会いに行こうとしたのだ。お気に入りのエナメルのブーツに履き替えて。

7月のある日の連絡帳(一日分)

 日曜の夜、大癇癪で暴れたため、落ち着いてから話を聞きました。
・学校に行きたくない
・〇〇くんに中庭で何度もボールをぶつけられた(3回くらい)
 近くに友達はいなかったので、助けてくれる人もいなかった
 言い返したり、強く反発するのは怖くてできない
・(消しゴムがなかったので聞くと)〇〇くんにバラバラにされた
 休みの間にバラバラにしていたと〇ちゃんが教えてくれた
 (担任)先生はお休みだったけど、ほかの先生は知っているらしい
・プールがこわい
 母「こないだは潜れたと喜んでいたよね?」
 娘「うそだもん!本当はおぼれた!こわい!いやだ!」と話す(日曜)
 (月曜夜には)プールは入る。深いところでバランスを崩しておぼれたけ   ど、壁が近かったので自分で顔を出せた
・宿題がやりたくない、できない
 →これは我慢ができず、すべて投げ出したくなるだけのようです

以上のようなことを言っていました。朝起きてからも泣きながら行かないといったので、お休みさせました。一日買い物などの用を済ませて家でのんびり過ごし、多少はストレスがましになったようで、火曜は行こうと話をしました。

どこまでほんとうなのかわかりませんが、お友達とうまく遊べなかったり、いじめられたと感じるとつらいようです。忍耐力が全くなくなってしまったように思います(保育園のときよりひどい気がします)

また、先日児童センターの先生から、
①みんなと違う場所で遊びたがるため、先生のいない場所へ行こうとする
②道路への石投げをやめない、説得もきかない
という話をききました。無理やり強要すると泣き叫んで手が付けられなくなるので困っているという話でした。この時は水を飲ませると比較的落ち着くと伝えましたが、本人と話はしたものの、今後様子を見ていただこうと思います。また、学校での様子も教えてください。

〇〇くんの件も事実確認していただけますでしょうか。大変お忙しい中恐縮ではございますが、なにとぞよろしくお願いいたします。

P.S.保育園の先生にアドバイスをもらいに行ったところ、娘は”とりあえずできるかどうかは別として、まず話を聞いてあげると落ち着きやすい。前々からその後の見通しを伝えておくと、比較的気持ちを切り替えやすい”とのことでした。

毎日の癇癪との闘い。通院、診断

 小学校での様子を書類にまとめてもらったのが6月、予約ができたのが夏休みの終盤、8月だった。そのころには毎日の激しい癇癪に疲れ果てていた。
 「ママ、殴って」「嫌いって言って」「死にたい」「家出する」
叫びながら大粒の涙を流し、やり場のない怒りと不安を受け止める。「つらいんだね」「ママは何があってもあなたを愛してるよ」と言い続ける。その言葉は決して娘には届かない。娘なりの自傷なのだ。母にはどうすることもできない。
 児童センターでも癇癪をおこし、「毎日ここでみることは無理ですね」と言われ、絶望したのもこの8月。全てが限界だった。

 何枚もある初診の問診票にはたくさんのことを記入した。幼少期のこと、保育園のこと、学校のこと、家での様子。家族歴も嘘偽りなく書いた。事細かに記入したおかげですぐに診断がついた。予想していたADHD。しかし特性がより強いのはASDとのことだった。

 私自身ADHDの治療薬の副作用がかなりしんどかったため、服薬治療はためらわれた。朝薬を飲むと、吐き気と食欲減退でご飯がほとんど食べられず、激やせした経験があった。娘もやせ型で食に興味が薄いタイプ。耐えられないと判断した。

学校の環境調整、頼れるものはなんでも使う

 診断後、学校でも様々な環境調整をしてくれた。支援級や職員室、保健室など、居場所を探してくれた。人に余裕があるときは、教室がつらくなったら学校内を散歩させてくれたりもした。少しずつ癇癪も減り、自傷願望のようなものも少し落ち着いた。登校も付き添う日は少なく、それでも途中までは一緒に行ったり行かなかったり。
 児童センターは完全に合わないし、先方からも遠回しに拒否されたため、放課後等デイサービスを探した。仕事を続けつつ、放課後は隣に住む義母にお願いした。義母も週2で仕事があり、どうにもならない日だけは児童センターにお願いした。
 放デイを探すのはなかなか難しかった。なんせ何も情報がない。手あたり次第問い合わせて空き状況や特徴、施設の見学をして、送迎があり、男女別に活動できる放デイが見つかった。手続きにも時間がとられた。体力も精神力もギリギリだった。
(夫はいつも戦力外。巻き込む努力をしてみるも、10点ほしいところで3点くらいしか取ってくれないので、「あなたも他人事じゃないのよー」くらいの意識を持てる程度に関わってもらっている)

 ある日の付き添い登校。教室の中まで連れて行ってもまだ「ママがいい」が続き、学校から仕事を休む連絡を入れた。もう少し一緒にいられると思って安心したのか、「なわとびしてくる」といって中庭に駆けていった。なんのために仕事休んだのかなーなんて思いながら待っているとチャイムが鳴る。娘は帰ってこない。しばらく帰ってこない。持たせていたAirTagの反応はイマイチ。「もしかして一人で落ち込んで校舎の片隅で体育すわりで泣いているんじゃないか」と頭をよぎり、先生に声をかけて学校を走って探しまわった。
 「あ、ママ~」と気の抜けた声が聞こえたのはちょうど校舎を一周したころ。後ろに教頭先生を従えて、なわとびで走り飛びをしていた。教頭先生も「あ、お母さんお疲れ様です~」なんて、のんきに。
 正直気が抜けた。この子おもしろいな~大物だわ~なんて思ったりもした。校内でお散歩ってこんなことしてるのかな。娘には「いなくなる時はちゃんとわかるようにしてね」と伝えた。

放デイの利用と服薬開始

 11月から放デイが利用できることになった。これで放課後義母に頼る必要がなくなる。そして迷っていた服薬も開始した。ADHDではなくASDの治療薬であるエビリファイを飲むことにした。この薬は食欲減退の副作用はみられず、あるとしたら食欲増進の方だということで安心したのが一つ。人によっては効果が見られないレベルの少量からはじめられることや、娘の不安感が少しでも楽になったらいいなという思いから始めることにした。
 結果効果はテキメンで、家での癇癪は減っていった。時間帯による差などもあり、服薬の時間や回数はその後調整を重ねることとなった。

小1の壁 我が家の場合 

 まず想定外だったのが教室で過ごすことが苦痛であったこと。それによって明らかな二次障害といえる症状がでてきてしまったこと。二つ目に児童センターが使えないという状況。土曜日の開所時間が合わなかったり、平日の閉所が早いためにお迎えがギリギリになるなどの一般的な壁とは違い、そもそも「うちは無理」と言われてしまうことなんて考えもしなかった。

 娘の突発的な「学校行きたくない」に対応するため、育児時短も使って一日6時間×週4日の勤務となった。付き添い登校は体力を消耗した。でもそれで娘が学校へ行ってくれるのなら、と思って頑張ってみたものの、結局は「学校行けない」と言われると仕事を休まなければならなかった。
 今まで何度「小学校へ入ったら楽になるって聞いてたのにな~」とぼやいたかわからない。朝の7:30には家を出る。自分のことは自分でできるようになると思っていたが、我が家の場合は今まで以上に心身を消耗する毎日となった。

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