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スパイスカレーとおしゃべりな猫
土曜日の朝、僕は事務所のデスクに座り、図面を眺めていた。休日なのに仕事が入るのは珍しくない。建築というのは、時に人間の都合よりもコンクリートの都合を優先しなければならない。まあ、それも仕方がない。人生にはそういうことが多すぎるくらいだ。
午前中でなんとか仕事を片付け、昼過ぎには事務所を出た。まだ陽は高い。どこかでゆっくりしたい気分だった。そういえば、以前、ネコに連れられて行ったカレー屋があった。天満の小さな店だ。もちろん、ネコが本当に僕の手を引いて案内してくれたわけではない。だが、ふと気がつくと、そのネコが路地を曲がるたびに、僕も同じ方向へと歩いていた。そして、結果的にそのカレー屋にたどり着いたのだ。
店に入ると、カウンターの向こうにいる女性店主が顔を上げ、にっこり笑った。 「お、久しぶりじゃない」 「ふと思い出してね。まだカレー、やってる?」 「もちろん。今日は特別サービスしてあげる」
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店は静かだった。客は僕ひとり。ランチのピークを過ぎた後の穏やかな時間が流れていた。スパイスの香りが漂い、心地よいジャズが流れている。
彼女は手際よくスパイスを鍋に放り込み、くるりと木べらを回した。その動きは流れるようで、まるで魔法のようだった。僕はカウンターに置かれた小さな猫のフィギュアを眺めた。釣り竿を構えた愛嬌のある猫だった。
「この猫、前からいたっけ?」 「うん、でも最近ね、時々しゃべるのよ」
僕は軽く笑ったが、彼女の表情はどこか楽しそうだった。カレーが運ばれ、僕はスプーンを手に取った。一口食べると、香りが口の中いっぱいに広がった。うまい。
「夜はバーになるんだよね」 「うん、もうすぐ準備しないと。でもせっかくだし、ちょっと飲んでいく?」
気づけばウィスキーのグラスが目の前に置かれていた。誘われるままに一杯。それが二杯になり、三杯になった。
「こういう緩い関係っていいよね」
ふと、そんな声が聞こえた。僕は驚いて辺りを見回した。しかし、店には僕と彼女しかいない。
「今、何か言った?」 「言ってないよ」
もう一度、声のした方を探す。すると、カウンターの猫のフィギュアが微妙に傾き、まるで微笑んでいるように見えた。
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「猫がしゃべったような気がするんだけど」 「ふふ、やっぱり聞こえた?夜になると、この店にはいろんな不思議が起こるのよ」
彼女はそう言って、ウィスキーを一口飲んだ。
「へえ、たとえば?」 「たとえばね……」
彼女は意味ありげに僕を見た。そして、ふいに手を伸ばし、カウンターの猫をちょんとつついた。すると、その瞬間、猫のフィギュアの釣り糸がふわりと宙を舞い、小さな金色の魚の形をした光がふわっと現れた。
「すごい……」
僕は思わず息をのんだ。彼女はくすっと笑いながらグラスを掲げる。
「ね、いい夜になりそうでしょう?」
外を見ると、夕暮れが静かに降りてきていた。僕はウィスキーを一口飲み、カレーの余韻を楽しんだ。こんな風に、偶然のような必然のような時間が、人生には必要なのだと思えた。そんな夜の始まりだった。
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