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新たなる学びと出会いとスパイスと

 四月から大学院に通うことになった。いまさら? そう、自分でもそう思う。でもまあ、人生には時々そういうことがある。思いがけず風向きが変わることが。

 久しぶりの学生生活という響きに、脳の奥で小さな歯車が軋みながら動き出す。製図室の深夜の灯り、鉛筆の音、擦り切れたスニーカーの感触。あの頃の僕は二十代で、いつも図面に追われ、そして彼女と夜な夜な建築談議を繰り広げていた。彼女も建築を学んでいて、模型の切り屑を巻き散らかしながら、将来についてあれこれ語ったものだ。わりとカレーを食べながら。

彼女との建築談議とカレー談議

 けれど、そんなものは遠い昔の話だ。今の僕は50代の独身建築家で、あの頃の情熱はきれいに分類され、整然とファイリングされている。いや、きれいにと言うのは嘘だ。ときどき無秩序に散らばったままの記憶もある。例えば彼女の横顔。例えば彼女の笑い声。そして、彼女の最後の「じゃあね」という言葉。

 そんなことを思い出しながら、大学院の手続きへと向かった。その帰り道、ふとスパイスカレーが食べたくなった。どういうわけか、建築とスパイスカレーは僕の中で妙に相性がいい。どちらも構造が大事だからだろうか。そういう理由を考えるのは建築家の悪い癖かもしれない。

 適当に検索して、良さそうな店を見つけた。店先には「すぱいすにきいてみた」と書かれた手書きの看板がぶら下がっている。なんとも魅力的な言葉だ。ドアを押して店に入ると、スパイスの香りがふわりと鼻をくすぐる。ターメリック、クミン、クローブ。それらが複雑に絡み合いながら、僕の記憶を刺激する。

 カウンターの奥から、可愛らしいメガネの女性がにこやかに顔を出した。「いらっしゃいませ」

お茶目な店主さん登場

 聞き覚えのない声だが、不思議と心地よい響きだった。店を始めたばかりだと言う。僕はメニューも見ずに「おすすめを」と頼み、カウンターに腰を下ろした。そして、ついでのように「実はまた学生になるんですよ」と言った。

 彼女は驚いたように目を丸くして、「わあ、すごいですね!」と笑った。「お仕事しながら大学院ですか?」

 僕は頷きながらスプーンを手に取る。スパイスの香りと彼女の笑顔と、新しい生活の始まり。そのすべてが心地よく混ざり合って、胸の奥に小さな火を灯した。

 大学院生活は、案外悪くないかもしれない。いや、むしろワクワクしてきた。新しい学び、新しい出会い、そして新しいスパイスカレー。これから何が待っているのか、ちょっと楽しみだ。

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