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餃子とビールと日常と非日常について
そして、日常が静かに始まり、一週間がたった。
朝、窓の外を眺めると、薄曇りの空が広がっている。寒くもなく、暖かくもない、どこか中途半端な冬の日だ。コーヒーメーカーから立ちのぼる湯気が、僕のキッチンをほんの少しだけ活気づけている。さほど売れていなくても、建築家という肩書きは、一見それなりの響きを持っているが、実際のところ、日々の営みは単調そのものだ。実際、仕事はそんなに来ない。だが、それが悪いとも思わない。僕はそういうリズムに慣れきってしまった。
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日も暮れかかり、仕事を終えてオフィスの灯りを落とすと、自然と足が向く先がある。駅前の中華料理店だ。名前はありふれている――たしか、「上海飯店」とかそんな感じだったはず。僕がそこで過ごす時間は短いが、妙に心地よい。馴染みの顔ぶれと、少しだけ歪んだ赤い提灯の光。それが僕にとっての小さなオアシスだ。
その店の店員、たにぐちさんに会うのも、店に通う理由のひとつだ。彼女は30歳くらいで、丸い眼鏡をかけた小柄な女性だ。どこか親しみやすく、ほっとさせてくれるものがある。彼女の小さな声が店内のざわめきに溶け込み、僕の耳元に静かに届く。彼女の存在は、店の餃子と同じくらい、いや、それ以上に僕を引きつけている。
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「いつもの餃子とビールでいいですか?」
たにぐちさんが僕にそう尋ねる。僕は軽く頷きながら、「そうだね、いつものやつで」と答える。そのやり取りには、何か儀式めいたものすら感じられる。そして、餃子が焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「最近寒いですね。正月はどう過ごされました?」
たにぐちさんが皿をテーブルに置きながら、ふと尋ねてきた。その問いに僕は一瞬言葉を探した。正月、僕は一人旅をしていた。列車に乗って南に向かい、たまたまたどり着いたその街の屋台街で、今夜と同じように餃子を食べ、ビール飲んだ。その屋台で出会った佐藤さんのことを思い出す。彼女も30歳くらいで、たにぐちさんとは、また違った雰囲気を持っていた。彼女も眼鏡をかけていたのは同じだけど。ショートヘアに優し気な目元の彼女は、屋台の隣席から僕に声をかけてくれた。僕らは餃子とビールの相性について議論を交わし、それからひとしきりいろんな話題で盛り上がったのを思い出す。
「ひとり旅をしてたよ。温泉に入って、屋台で餃子を食べてさ。隣に座ってた女性が、なんというか、印象的でね。」
「どんな方ですか?」
「30歳くらいで、ショートヘア。たにぐちさんとはまた違った感じだけど、やっぱり餃子が好きそうだったよ。」
たにぐちさんは少し照れたように笑った。「なんだか面白いですね。餃子を好きな人が引き寄せられるんでしょうか。」
僕はその言葉に頷きながらビールを飲んだ。日常と非日常、その境界線は案外曖昧だ。たにぐちさんと佐藤さん、ふたりの女性には共通点がありながら、それぞれが僕の中で別の存在感を持っている。そして僕自身、その微妙な違いに心地よさを感じている。
餃子をひとつ頬張り、僕はふと考えた。人生というのは、きっと餃子みたいなものだ。中身の詰まったものを、一口ずつ味わいながら、熱さに舌鼓を打つ。その合間にビールの冷たさが訪れる。その繰り返しだ。
「また来てくださいね。」たにぐちさんが僕を見送りながら言った。
僕は軽く手を振り返し、店を出た。赤い提灯が風に揺れ、夜の冷たい空気に静かに溶けていく。
ふと空を見上げる。たにぐちさんも佐藤さんも、それぞれが僕にとって素敵な出会いだ。これからどんな形で繋がっていくのかはわからないけれど、その可能性があることが、僕の胸に小さな灯りをともしている。
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