傍観者に期待するのは間違ってる【「シャガクに訊け!」感想】
シャガクに訊け!がいい小説だった
「シャガクに訊け!」を読了。いい本!思わず普段あまりつぶやかないTwitterにAmazonのリンクを投稿するくらいいい小説だと思った。
明瞭な主題は物語と要素の有機的なつながりを生む
不思議なことに、この本はストーリーの構造が凝っているというわけではないにも関わらず(綺麗な構造だとは思うが)、物語によって何を語りたいかということが明瞭に伝わってくる。昨日読んだ本とは真逆である(タイトルは伏せる)。何故そのような印象を受けたのか?それは、卑怯を社会学的に解析して、勇気を肯定すると言う主題がはっきりしているからだ。
小説の内容は、事件やいじめにおける加害者と傍観者についての話が主軸だった。傍観者も加害者たりえるが、勇気をもつことでそこから抜け出せる、というのを科学的な知見を交えて語るものだった。とても魅力的な物語だと思ったし、その裏付けとなる社会学の知見は物語に説得力を増させていた。主題をはっきりさせることで、物語とその構成要素が有機的につながっている好例だと思った。
傍観者は悪意すらない
ただし、この小説のある登場人物が語る加害者と傍観者についての意見(※)に、僕は完全に同意する訳ではない。小説では、傍観者であることが事態を悪化させるということを説明している。また、ある条件下では傍観者も加害に加担する、という現象が説明されている。小説の中のある登場人物は、その例をもって、傍観者は卑怯であり、責を負うべきであるという説明を試みている。おおよそ賛成だが、傍観者が責を負うべきである、と言う部分には反対だ。理由として、すべての傍観者が加害者になるわけではないということが挙げられる。また、誰かが困っているからといって、助ける義務など無いということも挙げられる。加害者は悪とよばれ、責を負うべき事もあろう。だが、傍観していただけで責任を負わなければならない、というのはいささか潔癖すぎる気がする。
加害者が積極的な悪意をもつものであるとすれば、傍観者は消極的な悪意を持つものという事になるのだろうか?いや、ならないだろう。悪意すらないのが傍観者である。たとえ権威に流されて、簡単に悪側に立つ素質を持っているからといって、まだ未確定なのが傍観者である。しいて言うのであれば、傍観者が自身の善意に矛盾した行動をとっているという葛藤を打ち消す為に言い訳を大量に用意する、という卑怯に対しては責を負うべきかもしれない。そのような言い訳を用意するような人たちは自覚的な傍観者であると言える。だがそれは内省すべき事であり、本人以外に追及する権利は基本的にはない。あるいは、自分に言い訳する過程で他人を攻撃する、ということはあるかもしれない。だがそれも結局最終的に加害者になっているので、ただ自覚的な傍観者であるだけで他の人から責を負わされるというのはあまりしっくりこない。彼らは自分で責を負うべきである。それにも関わらず、内省出来ていない人が傍観者で居続けるのだろう。
傍観者に怒りを覚えないけれど、自分が傍観者だったらがっかりする
僕は傍観者という存在に対して、あまり怒りを覚えていない。傍観しない人の方が特殊だとすら思う。というか、小説の中の服従の心理の実験はまさにそのことを示していた。他人に高度な善意や公平さを期待するのはあまりよくない。人それぞれの利益(や快楽)というものがあり、それを増やすために人間は行動する。自分の赤ん坊の具合が悪くて病院に連れて行かなければいけない時に、たとえ赤ん坊がただの風邪だとしても、道路の端に倒れている見知らぬホームレスを助けることを優先する親がいるだろうか?これは極端な例だが、人にはそれぞれ都合がある。僕は他人が傍観することには怒りを覚えない(傍観する人に恐怖を覚えることはあるけれど)。
ただ、自分自身が傍観者だった時には少しがっかりするだろう。特に自分が自覚的な傍観者だった時だ。自分が卑怯なのは嬉しくない。そこから抜け出すには、自分を内省する勇気と学びが必要である。この小説ではそこがキーだったと思う。僕はその点には賛成だし、この小説はとても強い説得力を持っていたと思う。続編が出たら是非、購入して読みたい。
脚注
※この登場人物の説明は、もしかしたら著者の思想とは異なる可能性もある。しかしながら、最後までこの人物は意見を変えなかった。そのことからこの意見は著者がこの小説で伝えたいものの一つであると仮定し、上記の感想を書いた。
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