無意味について。
タモリ倶楽部が終わった。
1982年10月からスタートの長寿番組だった。番組内の「空耳アワー」は歴史的なコンテンツで多くのファンを生んだ。受験生だった当時、ラウドミュージックを好む僕には、尊い深夜の息抜きだった。
タモリの笑いには徹底して意味がない。「笑っていいとも!」にもそういうところがあった。(ちなみに「笑っていいとも!」も放送開始がタモリ倶楽部と4日しか違わないらしい。)
そして、先日、坂本龍一が亡くなった。
「教授」の相性を持ち、アカデミー賞、グラミー賞を受賞した日本を代表する音楽家が逝った。反戦や原発問題など社会課題について活動的で強いメッセージを放ってきたが、それは近年のことだ。実際に2011年のインタビューでは「本当につい最近まで自分にしか興味がなかった」と答えている。ゆえに、と言っていいと思うが、作品に対しては昔から大義をもたせるようなことはしていないと思う。訃報後のドキュメントを見たが、自分が好きな音を探るように作曲するスタイルは最後まで変わらなかった。おそらく、作品に意味を持たせるようなことはしていない。感性の赴くままに自分が良いと感じたものを作っている。
二人の賢人は、意味を求めることなく、笑いを、音楽を作り出した。
最近、意味の無さについて、考えている。
前にデザインの目的は課題解決であり、アートは自己表現というようなことを書いた。デザイナー原研哉氏の著書から引用した話だが、僕はこのデザインの概念は、仕事というもの全てに当てはまると思っている。要は何かの課題を解決することが仕事なのだ。解決と無関係なものがアート、そういうことになると思う。
で、僕のカレー活動についてだ。
僕のカレー活動はソーシャルグッドな目線を持たせようとしてきた。食べ残しが無いように米一粒でも掬うのが容易なカレー皿を作ったり、スパイス陰陽師という謎のフードロスカレーイベントをしたりだ。カレーで社会がちょっとでも良くなるって、とてもいいことじゃないかと、そう思ってきた。
でも、無意味を追っているうちに、なんだかその考え方が邪魔だなぁと思うようになってしまった。
そもそもカレー活動は好きだからやっている。本来はアート的なポジションのはずだ。それなのに、どうしてもカレーを通して「社会の役に立ちたい」と思ってしまう、課題解決に振れてしまう。
これは、たぶん「起業」という経験を僕がしてしまったからだ。「役に立つ」に向かっていないと社会に淘汰される、そんな恐れを常に抱いている。功名や承認欲求よりも前にそれがあるくらい、そこに向けて走っていないと怖い。
でも、思っているよりも人生は短いんだなと、晩年の坂本さんを見て強く思った。
もっと意味なんて持たせずに、気持ちいい、とか、美味しい、に到達するように純粋に何かを作り上げていくということが大切なんじゃないだろうか。本来の「生きる」とは、そういうことじゃないだろうか。そして、そこから生まれるものこそが意図せず社会の役に立つ、そんな気がしている。
SDG'sにかかる何かは、大喜利のお題みたいなものだ。だから、社会貢献の結果よりも、それが面白くないといけない。カレーなら、美味しくないといけない。
今、改めて資本主義の物差しでは測れない無意味性に、もっと賭けるべきなんだと思う。