シュッとしたいのに、シュッとできない
先日、3年3ヶ月の準備期間を経てリニューアルオープンした渋谷PARCOに行ってきた。
目的は地下1階のフードフロアだ。「CHAOS KITCHEN(カオスキッチン)」と名付けられいて友達のお店も出店している。フロアの説明、コンセプトは下記のとおり。
普段の僕の生活を知っている人なら御存知でしょうが、この要素だけで絶対に僕は好きになるはずなのだ。この混ざりかた自体がもうカレーじゃん!くらい思った。diskunionもあるとなれば郷愁の地である。何軒かはこの渋谷PARCO出店前から行ったことあったし、行ったことないお店でも著名なところが多く、あそこも出るんかー!と傾奇者を拝むような気分で向かった。
前評判通り、それぞれの個性が強い。昆虫食レストランや、エイジング加工された中華料理屋の店構えを持つビーガン料理専門店、寿司職人が立ち上げたフィッシュバーガー、クリームソーダが美しい純喫茶などなど。
だが、しかし...
思ってたんと違うー!
なんというか、夢中になっているものがキレイにまとめられてしまったというか... それと、既視感が凄い。何かってもうこれは歌舞伎町だ。
アヴァンギャルドやノスタルジーが混ざる鮮やかな軒並み。歩いてるうちに歌舞伎町に何店舗も飲食店を持つ経営者さんの言葉が頭によぎった。もう如実にこれ。
歌舞伎町で目立つのは、すごく難しいんだ。どんなにアバンギャルドなデザインでも、ぶっ飛んだ演出でも、歌舞伎町自体が非日常の塊だから全部吸収されて一緒に見えちゃうんだよね。
要は個性があるお店が集まり過ぎてしまって、お互いの良いところを食い合ってるのだ。変なんだけど、変が多いと、変に見えなくなる。コントラストがない。
渋谷に新しい歌舞伎町を狙って作ろうとしているんだとしたら、結構すごいことだとは思う。でも、歌舞伎町は変なヤツが集まっちゃう文化と歴史があるから、あのカオスが自然にできちゃったんであって、カオスを狙って作るのはどうなんだろう?もっというと、この「多様性とカオス」は、完全にPARCOのプレゼンテーションだから、飲食店として何回も来たい場所になるかなー?って疑問を持った。
今ってバロックっぽいぞ!
とは言え、だ。実のことを言うと、僕はカレーで「CHAOS KITCHEN(カオスキッチン)」と同じようなことをやりたかったのだ。カレーを軸に変なもの、変な人が集まる何かを作ったら絶対に素敵なコンテンツになると疑っていなかった。もっと世界がグチャグチャになって、ギラギラになって、エロエロする、そのトリガーを作りたいと思っていたのだ。だって、そういうのが好きなんだもの。
しかし、それが、目の前で瓦解した。僕がやりたかったことは薄まることだったのだ...と。カオスの集積は一般化につながるという方程式をマジマジと目の前で見せつけられてしまったし、改めて狙ってやれることと、やれないことがあるんだなと理解した。PARCOの帰り道は悶々。悶々々であった。
東急ハンズを抜けて悶々々々くらいの時に、ハッ!と高畑さんの言葉を思い出した。今はもう亡くなってしまったけど、スタジオ・ジブリで名作を作られた映画監督の高畑勲さん。高畑さんが、こんなことをおっしゃってたと本で読んだ。
全ての美術史はアーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロックの移り変わりの歴史である。
マリア像で例えると下記みたいな感じだ。
1, キリスト教の祈りを表現して荒々しくマリア像を描く、始まりがアーカイズム。
2, そのマリア像に、これがマリア像!っていう古典となり得るもの、完成形が誕生するのがクラシック。
3, そのマリア像の細部にこだわるようになるのがマニエリスム。
4, 最後にマリア像を飾り立て、装飾を豪華に施すのがバロック。
これを思い出して、急にPARCOの地下がバロック的だと思った。
※adobeで見つけたバロックのイメージ。
バロックとは華美である。飾る。PARCO地下は本来の"食べる場所"よりも、華美で独創性を出すことへのプライオリティが高い。
こうなると、これはもう大きな文脈の一つなんじゃないだろうかという気がする。つまり、PARCO地下は作られたカオスということではなく、カオスが一般化されていくのは、時代の流れなのだ。抗えるものではない。
ということは、僕はバロックの先に行くべきなのだ。アーカイズムに回帰して、もっと本質に行くべきなのだ。
バロックの先へ!シュッとするぞ!
バロックの先ってどうしていいかわからないけど、カオス(混乱)の反対はコスモス(秩序)だ。アーカイズムにいきつくには、イメージとしてシンプルで整理されている世界。改めて気づいたけど、最近、言われだしたノームコア(究極の普通)なんて時代の要請に合わせて芽吹いた文化なのかもしれない。
それらを統合して僕の中で考えたキーワードは「シュッとする」だ。最近うちの事務所もリニューアルオープンしたんだけど、その時の僕の計画を聞いた朋友柳下さんが言った言葉がキッカケとなっている。
竹中くんはキッチュだよね。僕はシュッとしたアウトプットを考えちゃうんだよね。
キッチュって言葉は昔と現代では意味合いが変わっている。ググって一番しっくりする感じの解説は「美と醜の二分法では分析し尽くせない複雑化した大衆文化の美的現象を包括的にさす言葉」だ。野性爆弾くっきー!だと思ってくれれば間違いないっしょ。うん。そういうのは好き。
で、柳下さんのシュッとするは、完全に理解できていないかもしれないけど、きっとこんな感じだ。
さわやかー。シュッとしてるー。
こういうことなのだ。こういうのを意識しよう。トゥモローランドで買い物をしよう。見た目も心もスマートに。くるぶしよりはやや上の丈で折り返すスラックスを買う。それと合わせてキレイな靴を履こう。
でも、あんまり気張っちゃいけいない。ジミーチュウなんて買っちゃダメだ。あれを履いていいのは承太郎だけだ。きっとカンペールのかわいくてシンプルなのがいい。一般的にお値段も奥様の許しを得るギリギリの設定であるだろう(カンペールってあざといな)香りも大切だ。香水じゃなくて、ルームフレグランスのリードディフューザーで(使い方あってる?)素敵なヒバの香りを軽くまとうのがいい。
よし。変わるなら早い方がいい。僕は新宿に向かった。こーゆーのは、だいたい伊勢丹にある。安直だよ。値も張る。でも最適解だ。僕は変わる。先を見るんだ。
と、伊勢丹の前にいつものクセで、新宿のビームスジャパンに入ってしまった。ここは企画がいい。この日は寅さんをテーマにした内容。面白い。そして、一番好きな4Fの「日本のポップカルチャー」へ。案の定、一気に目を奪われる。
即買いしたのは、これだ。
きゃわわわわわ!へんてこキティちゃん!
アーティストはUshiki Masanoriさん。友達のナカムラシンタロウくんの展示に参加してた人だ。元のテイスト自体が最高だけど、台無しにする滑稽さと強さがある。とてもいい。一緒に仕事してぇなぁと思ってしまう。
なんとなく作家性が近いところで言うと、秋葉原でやってた北斎の春画を現代に捉え直す「nuranura2019」も良かった。
エロスの表現は時代によってメディアが変化し、同時に同性愛を認めたり、特殊な性嗜好を認めるようになったりして、作品自体が多様性の証左となるのだ、みたいな難しいことも考えたけど、いやー、単純にギラッとしてたり、強度があったり、圧があったりの結果、美しい!かわいい!変!とかなるものが僕は好きなんだなーって、改めて思った。
って、改めて思った、じゃねーわ。
もうこんなん、絶対バロックから抜け出せないじゃん。
シュッとする、遠いー。シュッとできないー。
ダメだ。バロックが染み付いている。
もはやバロックの使い方があやしくなってきてるけど、もうバロック竹中だわ。このまま生きよう。
結局、その日はそのまま伊勢丹に寄らず、帰路についた。
でも、結局、「これで、いいのだ。」
僕は「シュッとする」と破談した。変われなかった。
一瞬、愛しく思ったけど、自分の気持ちに嘘はつけない。
それにしても告っておいて、フラれるのではなく、フル側にまわるとは。
偉くなったものだ。去年はバチェラーにカレー食ってもらったから、その辺の影響かもしれない。
でも、これでいいのだ。※このspectator 超面白いです。おすすめ。
無理に変わる必要はない。
それに、意識せずとも、この恋愛で自分に変化が訪れた。
前はゴチャゴチャしてるものが、そのまま好きだった感覚があるのだけど、今は、一個ズレているくらいがツボになったのだ。
僕の本筋であるカレーもそう。大阪スパイスカレーでも、要素が多過ぎるのは好みでなくなってきた。同じ大阪カレーでも出汁であれば、出汁の特性を出すようにシンプルに仕上げたカレーが好きになっている。
前にカレーは茶道に通ずるってプレゼンをしたことがあるのだけど、わびさびと織部好みがミックスするようなカレーシーンの文脈(これは後で書く)は生まれそうな気がする。間借りカレーとか見てても、そういう進化は感じられる。
要は変は集めるのではなく、一つに絞るのだ。さらに言うと、そこには筋が一本通った何かがあるといい気がする。ナラティブって言葉を最近使いすぎ傾向だけど、誰が何を紡いできたかを語れると、さらにわかりやすくなるはずだ。僕はこの筋をフードロスにしたいなって思っている。2019年は暗中模索ながらカレーとフードロスをつなげてきた。廃棄される運命の食材をカレーにしていくのは、無価値が価値を持つことだ。これは良いことしているってより、僕にとってフードロスは勃起ポイントだった。エクスタシー。ここに一つ変を加えて何かしたい。
そういったことをアウトプットしていくのが2020の目標だ。って今年の抱負として本稿を締めさせていただく。うん、なんか無理なく、無理しようって気持ちになった。これでいいのだ。ちなみに、僕は赤塚不二夫先生と同じ誕生日だ。