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変な小泉先生と、カツカレー。

諸説あるけど、カツカレーは1948年に「銀座スイス」という洋食店で産声を上げたとされる。当時の巨人軍の名選手が「カレーにカツをのせてくれ!」ってお願いしたのが始まりらしい。

この頃の世界は、ガンジーが暗殺されたり、NATOが設立されたり、中華人民共和国が建国宣言したりと、そりゃあもう夢と不安がぐちゃぐちゃに入り混じった激動期だった。っていうか、そもそも戦後3年しか経ってない。

日本人はカツカレーに、そんな時代を生き抜くための強さを求めたのかもしれない。ヒーローが食べている、強くなれる、「カツ」は「勝つ」、そんな食べ物。

はい、その44年後。1992年。小学6年生だった僕は茨城県つくば市にあった「香辛飯屋」で初めてカツカレーに出会う。小泉先生という変な先生のおかげで。小泉先生はミニバスの顧問で、当時は30代後半くらいで独身。ポッチャリしてて、いつも色の薄いサングラスをかけてて、見た目は怖いおじさんだった。

でも、妙に教育熱心な人で、いや、妙な方向に教育方針がある人で子供には人気があった。小泉先生は、たまにチームの何人かを連れて土日の練習後にドライブにいく。いつも隣の市のゲームセンターに着くと500円玉をいっぱいくれて、迎えに来るから大いに遊ぶように!と言っていなくなる。ゲーセンで遊び終わると、今度は、花火付きのパフェが食べられるところに連れてってくれるのだが、小泉先生はまたお金だけ置いていなくなる。

大はしゃぎして食べ終わった頃にまた現れて、最後はカレー屋に移動する。ここだけは小泉先生も同席するのだが、まず、先生も僕達も各々が好きなように漫画を読む。カレーが運ばれてきたら、ゆっくりと漫画を読みながらカレーを食べる。おしゃべりはしない。そして、そのまま終わるのだ。静かに何も話さないけど、豊かな晩餐。僕はこのカレーの時間が大好きだった。

ここのカレー屋「香辛飯屋」は辛さを選び、いろんなトッピングができるカレー屋として流行っていた。要はCoCo壱方式なんだけど当時は珍しかったし、そのパーソナライズされた注文の仕方にキュンキュンした。だって大人の仲間入りをしているみたいだったんだもの。

そこで初めてカツをカレーの上に載せた。それは予想よりも軽やかに載っていた。チキンカツだった気もする。分厚くはなかった。その他にも、茹玉子、ソーセージ、コロッケも載せた。コーラも頼んだ。一緒にいた友達のカナくんは辛口にしてヒーヒー言ってた。卓ちゃんは、ボーダーのTシャツに黄色のシミを作り、音符みたいになっていた。僕が読んでた漫画は、たしかミスター味っ子だった。

今、考えるとゲームセンターの出入りは校則違反だったし、漫画を読みながら食事するのも教育的に問題だ。親公認のお泊り会なんてのもやったけど、夜中に外出しようとしたら小泉先生は、あんまり遠くに行くなよ、しか言われなかった。緩やかに「答えは一つじゃない」と教えてくれていたんだと思う。禁止されているものの先に答えがあることもある。

はい、それから31年後の現在。僕は人よりちょっとカレーに詳しくなった。

今年になって日本ではカツカレーが再注目されている。カツカレーは世界的に日本食として確固たる地位を築いていて、イギリスではカツが載って無くても、日本のカレーをKATSU CURRYと言う。とうとう間違いが常識に定着するゾーンに入った。

日本人という単位でカツカレーと向き合うと、僕たちは今でもカツカレーに「強さ」を求めているように思う。事実「勝つ」にちなんで成就の願をかけて食べるようなことすらある。大きく、厚い、とんかつに、ルーがかかるあれを食べ切るのは儀式なのだ。

適当に食べるなんて許されない。
挑むように食べるのがカツカレー。

でも、それだけだと、少し息苦しくもあると思うのだ。もうちょっとユルく、強さから離れたカツカレーがあってもいいんじゃないだろうか。

僕はカツカレーのカツは厚くない方が好きだ。薄いくらいでもいい。ルーは粘度が低く、さらりとしていてほしい。

定番に逆らうような、
個人の好みとしての趣向を尊重するような、
何も約束してこないカツカレー。

そんなカツカレーに出会うと嬉しい。
小泉先生は若くして他界してしまったのだけど、どっちが好きかと聞いたら、僕と同じような好みだったりするんじゃないかな。

いや、どっちでもいいよ、とか、言うか。
そっちの方が小泉先生っぽい。

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タケナカリー/竹中直己
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