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Vol.131 一人ひとりのことを考える
昨日は、体育の授業の校内研究がありました。体育の授業を参観するときはとにかく「一人決めてずっと目を離さない」ことを意識しています。
担任だったら俯瞰的に見ていても捉えられる姿はあると思います。ですが、参観させていただくとき、特に動きのある体育はずっと追いかけてみないと大切な変化を見逃してしまいます。だからこそ、ずっと追いかけて目を離さずみることを大切にしています。
ずっと追いかけ続けているとみえてくることがあります。たとえば
めあてに「遠くの人にパスをする」と書いているから本当にパスしているな
パスする相手がいつも一緒だな。あの子がうまいのかな
2試合目にたまたまボールが的に当たってから直接当てるようになったぞ
当てるために下から投げたり横から投げたりし始めたな
あれ、ガードしている人に当て始めたぞ
パスも的に当てるのもタイミングをよくみて選んでやるようになったな
「相手チームのどこがよかったの?」という先生からの問いかけに全く反応していないな。ふりかえるのが難しいのかな
チームでのふりかえりの時間もただそこにいるだけになっているな。さっきまでの楽しそうな様子とはちがうな
もしかしたら「言葉にする」というのが苦手なのかもしれない
というふうに一人をじっくり見てみると見えてくることがあります。しっかり見た後で、じゃあこの子に必要なかかわりってなんだろうと考えるようにします。
「言葉にしてほしい」だから「どうして1試合目はパスをしていたのに2試合目からはやめたの?」と具体的に聴くことで自分の変化を言葉で表現してほしいな
「パス・的をねらう・人に当てる」の3つぐらいしていたけど、どれをすると“楽しい”につながったかな?と問いかけて、選べるようにしようかな
など、その子がちゃんと“ふりかえる”を支えるために学びを見取った教師としてかかわりたいと思いました。
ここに、「評価」というのが「枠」や「基準」に当てはめるものとして入ってきてしまうと、なんのための評価かがわからなくなりそうです。評価も、見取りもその子の“よりよい”へとつなげていきたいなと思っています。