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【歴史本の山を崩せ#039】『未完のファシズム』片山杜秀

≪「持たざる国」はファシズムにもなれなかった≫

第一次世界大戦以降、国家間の戦争は総力戦体制と変化しました。
資源、労働力といったリソースの寡多が勝敗を決する決定的な要因となる。
大戦後、大国のひとつに数えられるようになっても、島国・日本はそういったリソースを「持たざる国」でした。
「持たざる国」が「持てる国」と対峙していくにはどうしたらよいのか?
そのひとつの解として現れたのが、日本民族の不屈の精神があれば大国相手であろうとも倒すことが出来るという、神がかり的な精神至上主義でした。

実際、彼らがそんな非合理極まりないことを本気で信じていたのか?
考証していくと顕教的(言い換えるならばタテマエ)な部分と密教的(言い換えるならばホンネ)があり、精神至上主義は前者にあたることが見えてきます。
彼らもまた、精神力だけで「持たざる国」と「持てる国」の埋めがたい国力差を無視することが出来ないことはわかっていたのです。
ところが顕教の主導者が歴史の舞台から退場していくと、タテマエの顕教のみが独り歩きをはじめホンネである密教は忘却されていく。
大日本帝国の誰かが強力なリーダーシップを発揮できない政治体制も相俟って、ファシズムにもなれない「未完のファシズム」止まりとなった。
最期に残された頼るべきものが精神至上主義だけという悲劇が生まれた原因は軍部の暴走、無能な政府…といった単純な構図に回収させられるものではありません。

昨今の国際情勢のなかで反戦・非戦を唱えることは尊い態度であります。
ただ、戦争というものは「仕掛ける」だけではなく「仕掛けられる」こともあれば、「仕掛けざるを得ない」状況に追い込まれることもあるという点も前提として抑えておく必要があります。
対話による外交がすべてを解決できるという理想論は、究極のリアリズムが発現する国際関係の場においてはしばしば無力です。
この前提を抜きにして「未完のファシズム」というある意味で非常に日本らしい状態を生み出してしまった構造を無視し、ただ軍事力を持たなければ、政府が指導力を発揮して対話を続ければ戦争は回避できる…こういう結論に落ち着けてしまってはいないでしょうか?
これでは「なぜ大日本帝国は無謀な戦争に突き進んだのか」という原因を究明できないどころか、その構造を知らず知らずに温存しつづけてしまう危うさを抱え続けていることになるでしょう。

『未完のファシズム』
著者:片山杜秀
出版:新潮社(新潮選書)
初版:2012年
価格:1500円+税

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