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現実における救済とヒーロー映画(高山龍智『反骨のブッダ』を読んで)

2018年は竹美歴のインド元年として始まった。1月初め、印流映画の古典となった「バーフバリ 王の凱旋」を観た後、二月八日に割と衝撃的なこと(竹美歴メキシコ年の終焉…メキシコ人彼氏と別れたんだよッ…ある意味アステカ帝国の崩壊…)が起き、茫然とした頭で「インドに行くんだわ…」と妄想、『インド思想史』を読んですっかりその気になっていた。そんな頃、ツイッターで拝見した『反骨のブッダ』著者のツイートに興味を惹かれ、同書を読んだ。そのときは「ふむふむ」と思ったがYouTubeでテルグ語の映画を観るのに忙しく、秋頃には「ムトゥ 踊るマハラジャ」に開眼し、翌年、つまり今年の1月には本当に南インドはハイダラーバードまで行ってしまった。その帰国直後、まさかのインド人青年と出会ってそのまんま同棲という怒涛の流れ。
私ってやっぱりね、男が決め手なのねw馬鹿げたオネエw

そんな中で、同書を改めてめくってみる。

最初に読んだ時は、翻訳論としての面白さと、インド仏教が持つ大きな意味、インド映画の華やかな面からはなかなか知り得ない社会問題、その中で一筋の光として…つまり現実に生きるヒーローとしての日本人インド仏教僧の姿が印象に残った。
インド映画好きには知られたことだけど、インド映画にはそこら中に社会問題への言及がある。私のイチオシテルグ俳優(ラーム・チャラン)の主演するテルグ娯楽映画の王道とばかり思っていた「Rangasthalam」も、観てみたら、「後味の悪い」社会派スリラー映画だったので観終わって茫然。

そのインド映画の「後味の悪さ」について、著者がツイッターで面白いことをお返事してくださったことがある。著者オススメのタミル映画「カーラ」(ムンバイのスラムを舞台に、「繁栄する「白い」インドと、置いて行かれる「黒い」インドの相克を描く)を観終わった後、私が、とても面白かったが終わり方がとても重かった、とツイートしたら、著者は「それは本当の社会が苦しく厳しいから、ハッピーエンディングにはできなかったのだと思う」というようなことを応えて下さった(と記憶している)。

私ね、映画評を書きはじめて、そして特に好きなヒーロー映画ジャンルに関して、あんなにはっとさせられたことはなかった。私はああいう映画については逆で、現実にそうならないハッピーエンディングや、実在しないヒーローを映画に出すことで、現実を裏切ってでも我々は理想の在りように触れたいものなのだと考えてきた。でも、社会批判映画は、後味悪くて結構!なのだ。現実には救われてないんだから。映画の中で誤魔化してどうするのよ。

オバマ時代のハリウッド映画が格差や差別の問題を描きながら、なーんとなく皆が「嘘くさい」と感じる正体はそこなのだと思う。富裕層側であるハリウッドが、貧民や被差別者に寄り添うったって、限界あるの。「アス」のセリフ「We are….American」はハリウッドとしてはすごい皮肉ね。同性婚があんなに盛り上がったのだって…一定層以上の白人富裕層の存在抜きに考えられないもんね…残念だけど。

韓国映画然り、「社会がキッツい」という一般的通念を持っている国の映画は、他人ごとである限りは、刺激的で面白い。救われぬラストだからこそ良いという作品だって出てくる。そして社会悪に対峙しながら「すっきりしない」ラストを描くことが、本当に社会のために苦しく生きている人に寄り添うことなのだ…それは壮絶な反骨宣言でもある。

最近『アンベードカルの生涯』(ダナンジャイ・キール著・山際 素男訳)という本を読んだ。アウトカーストの出身で独立インド初の法務長官にまでなり、のちに仏教に改宗した人物の伝記。筆致が熱すぎて苦しくてもどかしくなる本だった。アンベードカル博士の言葉には強い確信がみなぎっている…激しい知性だったんだろう。何かに反抗し戦い続ける人というのはそうなんだね。私の身近にも、全く違うことで戦い続けてる人がいるので何だか生き様が重なった。

さて、だいぶ話が逸れたが、『反骨のブッダ』、前半の翻訳論的な分析や、本来のテキストの意味に立ち返るというテキストの批判的研究の面白さに満ちているが、同書を貫いているのは、「現実の世界で救いがなければ何の意味もない」という灼熱のリアリズム。これはアンベードカル博士の伝記からも同じものを感じた。

不思議なの、同書は「仏教」の本なのに、スピリチュアル的な部分…すなわち私が言うならば、オカルトや呪詛研究に必要かと思うような要素が皆無。そして一見自己啓発本のようだが、全く異なる。仏陀が本当に言いたかった(と著者が考える)ことを伝えるために日本語で書かれた本だから。啓発はされない。でも力と熱が何か伝わってくるの。

あとがきは切なくなる。誰にも知られることなく、孤独と苦しさを抱きながら、世を救いながら生涯を生き、尚且つ近親者を救えないという、私は若干分かる種類の矛盾(世の中の前に家庭を救いやがれと言いたいのが近親者というもの)と時に向き合いながら、それでも人の世のために動き続ける人間への尊敬…それが筆者を動かしているのだと思った。

そして私も、結局そういう人物像や行為に惹かれていると思う。竹美ベスト映画に「皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ」を選んでいることもそう。あの映画のラストは映画としてはすっきりするんだけど…問題解決をたった一人のモジャモジャ頭のおっさんが背負って夜の街に飛び込んでいく、どうしようもない寂しさを考える…ヒーローの孤独ってそういうものなんだな。家族友人がいない孤独な人物であって当然なのだ。

同書は、新自由主義とオカルトの坩堝と化しつつある令和の日本で自分がどう歩むかという実存的な課題を日本人に突きつける。ヒーロー映画が否応なく社会問題に接続してしまうタイプの社会では、ヒーローたちが必死に訴えていることでもある。日本では映画からはまだ聴こえないが…それが映画から聞こえるようになってしまった日本も私は怖いよ。「普通の国」になるってことだからね。

失恋からのインド映画への興味が、仏教の本を経由してヒーロー映画の理解へとこうして繋がるとはね…ククククク…元々私は…人を病ませる程の呪いを持ち…「世の中をましにするための研究」と銘うって呪詛研究所を(脳内に)立ち上げ…要するに闇に惹きつけられる私が闇の側に立ってしまうのも時間の問題…来るがよい…ククククク…ハーッハッハッハッハアアア…

その時はヒーローが息の根を止めてくれると期待している。



※ちょっと説明足りなかった気がするので補足。インドの被差別アウトカーストの問題とインド仏教は極めて密接…というかそのものと言ってもいいくらいのこと。したがってもちろん同書はアンベードカル博士のことが何度も出てくるし、それ抜きには書けない内容。けれども、日本人で、直接そのことを知らなかった者としてこの本を読み、本筋から少し外れたところでこの本と繋がった気がするの。

私はインド人と交際しているけれども、カーストに関する話は基本的にしたことないし、するつもりはない。私がズカズカ立ち入っていいことではないと感じる。彼が話したければ私も聞く。それで正しいのかはわたしにはまだ答えがない。

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