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音をつむぐ③(活動履歴編3)

【メジャーでの仕事】

25歳頃から様々な縁が繋がって、メジャーレコードでの楽曲提供の仕事をする機会がありました。前回の記事「音をつむぐ②」で厳しい言葉でのアドバイスをくれた当時テイチクレコードのプロデューサーが曲を採用してくれました。

■(株)テイチクレコードから発売
テレビ朝日系「料理バンザイ」テーマソング
シングル「夏の約束」 片桐智幸
作曲:takemoto  作詞:松井五郎 編曲:森俊之

夏の約束

 【この当時のこだわり】

この頃の僕は、それでもシンガーソングライターという立ち位置に拘っていて、人に曲を書いている場合ではないと内心思っていたのでした。
ただ、その反面、音楽を仕事にする上で、楽曲提供という道を模索するのはとても意味があると頭の半分ではわかっていて、どこか悶々とする日々が続いていたように思います。

【総武線で泣いた・・・】

テイチクレコードからリリースされた「夏の約束」というのは、最初はバラード調の楽曲で「雲雀(ひばり)」というタイトルで自分が歌っていたものでした。このメロディーが採用されて、プロの方たちの手によって見事なまでにポップな作品となっていきました。この楽曲の制作途中に「仮歌」という仕事もあり、都内のスタジオへ行き、ボーカルブースに入り、仮歌を入れる仕事もやりました。ただ、その時にうまく歌えずに本当に悔しい思いをして、帰りの総武線の中で泣いてしまったことを思い出します。プロデューサーから言われた言葉が今でも心に残っていて

「歌は、ただうまけりゃーいいってもんじゃなくてさ、それだけじゃ通用しないんだよね」

と、録音スタジオで言われたことは心に突き刺さりました。

このプロデューサーの方は、はっきりと言う人でしたが、上記のシングル曲をテレビのテーマソングにも起用してくれ、さらにポップス界を代表する作詞家の松井五郎さん、アレンジに森俊之さんという一流のプロに制作を依頼をしてくれました。僕は「このチャンスをくれたこと」「当時の実力を客観的に僕に示してくれたこと」に対して心から感謝していますし、今でも有り難いと感じています。

【あるアドバイス】

もちろん、この言葉を言われた直後は反発する気持ちも湧き上がってきて、まだ20代半ばですから、素直に受けとめる器もなかったと思います。
ただ、この頃に出会ったアレンジャーの大村雅朗さんから

「竹本は100曲でも200曲でも書いて、駄作でもいいからとにかく作り続けて、その中で1曲くらいは使える曲が出てくるかもしれないから、作り続けてみたらどうかな、それで、余計なアレンジなどしなくていいから、ギター1本でメロディー作った方がいいよ」

と、そんなアドバイスをしてくれました。大村雅朗さんと言えば、日本のポップス界を牽引したアレンジャーであり、松田聖子の「SWEET MEMORIES」など数多くの曲を生んだ作曲者でもあります。当時、何故か無名の僕を自宅に呼んでくれて、領収書の整理などという名目でバイトをさせてくれました。その時に、佐野元春のデビュー当時のデモテープの話、渡辺美里「My Revolution」のアレンジは大村雅朗さんで、作曲者の小室哲哉との出会いなど貴重な話をたくさんしてくれました。

【ギター1本で作った曲】

その後、ジャパンセントラルミュージックからリリースされたマキシシングル「ネロ」(音をつむぐ②参照)を聴いてくれた別のプロデューサーから声がかかり、声優の「山本まりあさん」のアルバムの2曲を担当することとなりました。竹内まりや、財津和夫、上田知華なども楽曲を提供しています。それが26歳の頃

■(株)ワーナーミュージックジャパンより発売
アルバム「風のにおい」山本まりあ
「大空の下で」作曲:財津和夫 作詞:takemoto 編曲:藤原雄紀
「虹の見えるあの場所」 作詞・作曲:takemoto 編曲:鈴木豪

山本麻里安

結局、僕にはアレンジという才能はなくて、アドバイス通りに、メロディーに集中して、ギター1本で1日1曲、年間で365曲作るという意気込みで楽曲を作り続けていきました。ただ、実際は年間で曲の端くれも含め100~150曲前後をなんとか作っていたと思います。

そして、大村雅朗さんに言われたように、上記の山本まりあさんのアルバムでギター1本で作った曲が再度メジャーで使われることになったのです。

⇩この動画音源は当時プロデューサーに聴いてもらったものです⇩

*このデモテイクでO.Kが出て、プロのミュージシャン、アレンジャーが入り、アルバムの楽曲が制作されていきました。現在では僕のようにギター1本で曲を作るだけでは、たぶんコンペで勝ち抜くことは出来ないと思います。が、この当時はメロディーだけを聴いて、テンポや構成も含め足し算&引き算をして、本質的なその楽曲が持つポテンシャルを見抜いていくディレクターやプロデューサーが沢山いたように思います。

【この頃の経験が僕を強くした】

この頃のお金の話をすると、楽曲がメジャーで使われたからといって、お金がすぐに入ってくるというものではなくて、時期もかなり後になって銀行口座に入ってくるのですが、それもかなりの少額・・・そしてその収入は続くわけではないのです(泣)。

バイトなどをやりながら生計を立てて、昼間は働いて、楽曲を作るということを繰り返す日々です。とにかくやってやってやりまくる。気持ちを全開にして、やるだけのことはやる、やり切る!!

文句を言っても始まらないわけですから、定期的にダメ元でも音源を関係者に持っていって聴いてもらう、郵送で送ったりする、ライブも開催する、それでも一銭にもならなくても夢に向かってやり続ける。正直言えば、もう少し賢いやり方があったようにも思うのですが、この頃の経験が僕を強くしたとも思います。

現在の仕事をやる上で、多少理不尽なことがあっても、とにかく前に進める、仕事としてやり切るというスタンスを持つなど、自分の言い分はさておき、任された役割を全うするということを今の仕事では意識して、時々この頃のことを思い出します。

楽曲を100曲、150曲書いても全然認められない日々があったことを思い出せば、会社員というのは、上司にどんなことを言われようが、いじめられようが、それでもお金はもらえるんですね。音楽で仕事を摑もうとしていた日々は僕にとってとても貴重な経験と力になりました。

20代後半~この後も決して平坦ではない僕の音楽人生は続いていきます。結婚をして、子供が生まれます。人生は色々なことがあります。次回以降はそのあたりを書いていきます。ぜひ、読んで頂ければ幸いです。
次回は20代中頃の思うように行かなかったことなどを書きます。

そして、今も変わらず音楽を作り続けています。
来年の春には今まで制作した楽曲を収録したアルバムをリリースする予定です。以前、作品をリリースした出版会社にも協力してもらえることになりました。もしよろしければ、50歳目前のソングライターを応援して頂ければうれしいです。とにかく、現在の仕事も、音楽にも全力投球で挑みたいと思っています!

少し長くて熱い文章を最後まで読んでくれてありがとうございました。

【takeプロフィール】
千葉県在住。会社員。
ライフワークとして音楽活動を続けています

★メジャーレーベルへの楽曲提供実績はこちら⇩

最後まで読んで頂きありがとうございました。