『作者のひみつ(仮)』改 第7章
7章 〈仲介者〉はいかに作者のイメージを広めるか? 1 評伝・伝記
一ヶ月後のいつもの月末の木曜日の午後、季節はすっかり秋に移っています。三人はまた研究室を出て、今日は広い公園の四阿に集まっています。
―近くにこんな大きい公園があったんですね。
―駅にとは反対方向なのであまり学生は来ないかもしれないですね。
―前にボランティア・サークルで子供たちと遊びに来たことがありますよ。
―そうなんだ。子供たちと遊んでいるの似合いそうだね。
―え、そう?
―子供たちの中に自然に溶けこんでそう。
―それは子供ぽいってこと? 子供たちと遊ぶのは確かに楽しいけどね。この公園の上の方に登ると東京タワーが見えるのもいいんだよね。
―東京タワーなんていつでも行けるでしょ。
―いや、遠くからあの姿を見るのがいいの。東京中に次々と新しい建物ができても、ストイックに一人で何も言わずにずっと立ち続けているのが好きなんだよね。
―へー。
―なるほど、確かに東京タワーは装飾もなくほとんど鉄骨だけで出来上がっているという点でストイックな作りをしているかもしれませんね。東京タワーが何を意識して作られたか知っていますか。
―やっぱりエッフェル塔だと思いますけど。
―そうですね。パリにおけるエッフェル塔のようなどこからでも見えるようなランドマーク、観光地にすることを目指して、さらにより高い塔にするというのが重要だったわけですね。なにしろエッフェル塔は鉄骨組の建築物の美しさを人々に知らせた記念的な建築物でもありますからね。
―エッフェル塔ができるまでは鉄骨で作った建物は美しいと思われてなかったんですか?ですか?
―ヨーロッパではそれまでは石組みの建築物こそが芸術としての建築物と考えられてきていたので、鉄骨組の建築物は無骨でせいぜい橋などに使われるくらいだったんですね。だから、エッフェル塔も建築当時は醜いものとして嫌う人もいたんです。
―ええええー、ほんとですか。
―本来は一八八九年のパリ万国博覧会の会場に建てられたモニュメントでした。最新の技術である鉄骨組の建築物で未来を演出しようとした訳ですね。だから元々は万博が終ったら取り壊されるはずだったんです。
―それが今まで残っているのはなぜなんですか?
―観光地としての需要が評価されたということですね。でも、芸術家や文学者には嫌っている人が多かった。有名な話としては、作家のモーパッサンがエッフェル塔が見たいくないから塔に入っているレストランに通っていたというのがありますね。
―見えなくても中に入るのは嫌じゃないのかなあ。わかるようなわからないような。
―このへんのエッフェル塔についてのエピソードは詩人・小説家・評論家の松浦寿輝が書いた『エッフェル塔試論』という本に書かれています。近代という時代について考える上でいろいろなヒントを与えてくれる本ですよ。
―おもしろそうですね。私も読んでみます。
―新刊としては入手しにくいので、図書館で探してみてください。ところで、エッフェル塔はなぜ「エッフェル塔」(フランス語ではLa tour Eiffel)と呼ぶのか知っていますか?
―ええーっと、パリの地名ですか? 考えたことなかったな。
―確かエッフェルさんがデザインしたんじゃなかったですか。クイズ番組でその人の写真を見たことがあります。
―そうですね。ギュスターヴ・エッフェルは一八三二年生まれの建築家ですが、鉄材を使った建築物や橋の建造で成功し、彼の会社はパリ万博のモニュメントを請け負います。一九世紀の建築界における成功者の一人というわけです。彼の生涯を伝える評伝・伝記もフランスではいくつも書かれているわけですが、それについて詩人・小説家・評論家の松浦寿輝は次のように述べています(1)。
ところで、技師エッフェルの野心を生涯にわたって方向づけることになった〈理工科学校〉不合格という思春期における決定的な出来事は、彼が人生で味わった四つの挫折のうちの最初のものである。
「偉人伝」というジャンルに携わる物語作家にとって、生涯のクライマックスをなす瞬間に前代未聞の高塔が聳え立っているといった主人公ほど恰好の劇的題材は、そう滅多にあるものではない。だから当然、ギュルターヴ・エッフェルの評伝もまたすでに幾種類も書かれているのだが、英雄の生涯をその輝かしい誉れと勲(いさおし)でもってもっとも効果的に飾り立てるための通俗的な物語技法の一つは、あたかもそうした積極的な達成の裏面をなしているかのごとき不幸や挫折を叙述の内部に然るべく配置し、そこに適度な力点を置くことで、主人公のイメージを、公の名誉の蔭に案外な「人間的」な弱点をも隠し持っていた「親しみ易い」存在として提示し、読者の同情と共感を誘うという手口である。マイナス面の強調は、主人公の偉さがそれとの対比でいっそう引き立つという利点に加えて、市井の生活者としての日常性の厚みをその人間像に賦与し、それによって読者の感情移入をいっそう容易ならしめるという便宜も備えているというわけだ。
―「偉人伝」って実在の人物について書かれてるんですよね。それで「物語作家」とか「物語技法」っていうのはどういうことですか?
―「偉人伝」のようなノンフィクションであっても、小説のように〈物語〉を使って書かれるのでこういう言い方をしているんですね。たとえ、実際にあったできごとを題材にしているとしても、そのうちのどれを取り上げどれを捨てるか、どのような順番で語るか、また何を強調し、クライマックスに持ってくるかということは作者が用いる「技法」によって異なってくるということです。小説の主人公のように伝記・評伝の主役は行動し、挫折し、またそこから立ち直り、読者の「同情と共感を誘う」わけです。読者は小説の登場人物にするように伝記・評伝の主役に「感情移入」をすることになります。
―確かに、実は偉人にはこんな面があったという話はよく聞きますね。偉人にふさわしい真面目な面だけが書かれて、不真面目だったり、自分勝手な人間だったりすることは書かれなかったりしますよね。
―大人向けの評伝だとそこまで書くのですが、子供向けの「偉人」の伝記は子供たちのお手本になるような人として描かなければならいないということでしょうね。また、子供たちに関心を持ってもらうためには、逆境からの成功という「英雄」としてのストーリーも必要になるわけです。なので、「不幸や挫折」が強調されることになる。その人物のイメージはその「不幸や挫折」によって作られるわけです。
―今日は作者の評伝・伝記の話なんですね。それを書く「物語作家」たちが〈仲介者〉になるということですね。
―はい。これまで作者のイメージを生み出し読者の読み方を縛る契機として、肖像写真を読者が見る、自作解説を読者が読む、という例をあげてきました。後者は作者自身が行うことではありますが、出版社が要求するという面もありますし、前者も出版社が主導して撮影・使用され、作者自身が意識的にポーズを取ることもありますし、作者の死後勝手に使われることもあるものでした。今回考えたいのは、それらの素材を用いて研究者や評論家といった〈仲介者〉が作り出す評伝・伝記です。
―評伝・伝記ですか。なんか難しそうですね。
―でも、一般向けの本として出版されるので読まれる機会はあるんですよ。それに比べれば個別の作品についての論文・評論や作者全体についての論文・評論の方が一般読者が読むことは少ないかもしれない。また、編集者や国語の教員等の他の〈仲介者〉が参考にしてさらに多くの人に作者のイメージを広めることもあるのです。また、写真や自作解説の無い時代の作者については、よけいに評伝・伝記持つ意味は強くなります。作者についての考える上では、〈仲介者〉の存在が非常に重要だということを確認していきましょう。
―なるほどなるほど。それで松浦寿輝さんが最初に言っている「四つの挫折」というのはどういうことでしょうか。
―エッフェルについては次のようなものですね。そして、一つ一つを下のように定義しています。
一 理工科学校の受験に失敗する……………制度
二 妻が三十二歳で早逝する…………………家族
三 暴風雨により建設中の橋が倒壊する……自然
四 汚職事件の被告として有罪になる………社会
―なるほどなるほど。一つ一つはエッフェルさんの個人的な「不幸や挫折」でも、制度・家族・自然・社会というと他の人の伝記にもあてはまりそうですね。
―制度は受験の失敗以外にも、徴兵されて戦場に行く、または徴兵検査で不合格になる、といったことがあります。大岡昇平、武田泰淳などが前者の例、三島由紀夫などが後者の例ですね。
―家族ってのもありがちですね。模擬授業で芥川龍之介について調べたんですが、国語便覧には母親の精神病がトラウマで、いつ自分も発症するか恐れていたという話が書かれてました。
―芥川龍之介については結婚前の恋人や、結婚後の愛人についても取りあげられることも多いですね。これも家族にかかわる「不幸や挫折」にかかわるものと考えられそうですね。
―ああ、恋人との結婚を親族に反対されたって話も載ってました。
―自然については、最近大きな地震があったり台風があったりしたのでリアリティがあります。
―日本の近代文学では関東大震災が時代を画する事件として考えられることが多いです。なにしろ首都が壊滅したわけですからね。たとえば谷崎潤一郎は、地震を恐れて関西に移住し、亡くなるまで生まれた東京に帰ることはありませんでした。そして、彼の小説の舞台も東京から関西へと変わったわけです。
―未来の文学史では東日本大震災も多くの作者たちの「不幸や挫折」を生み出したものとして扱われるのでしょうか。
―そうですね。ただ、東日本大震災は原発での事故も関わってくるので自然とばかりは言えないでしょうね。原発を推進していた社会の方にも関わってきますね。
―社会っていうのが広すぎてピンと来ないんですか。
―前に出てきた太宰治の芥川賞についての話なんかは違うのかな。賞を受賞するって社会的に認められることに関わってくるし。
―そうですね。有罪になるというのは社会的な地位を失うということですし、地位や評価の上昇に関わることだと考えたらいいいかもしれません。たとえば有名な学校に進学することを地位や評価の上昇と見なす人もいるので、社会は制度と重なるという見方もできますね。ただ、そういう分類よりも評伝・伝記で強調される出来事に偏りがあるということがここでは重要です。では、実際に作者についての評伝・伝記を読んでみましょうか。あえて作者の自作解説が無い、そもそも作者自身についての情報が少ない平安から鎌倉時代の作者を扱ったものを取りあげてみましょう。前に、競技かるた部の友達の話をしていましたよね。
―はい。ちょうど全国大会を前に準備しているところです。
―じゃあ、競技かるたで使う小倉百人一首を選んだのは誰だか知っていますか。
―藤原定家ですよね。新古今和歌集の撰者で「拾遺愚草」という歌集のある。
―さすがに国語教員を目指して勉強しているだけのことはありますね。
―作品は読んでないんで、せめて文学史だけは覚えとこうと思って。
―それで大丈夫なのかな。不安だなあ。
―まあまあ、今はそのあたりは置いておいて。さて、取りあげるのは久保田淳という日本の古典文学の研究者が書いた『藤原定家』という評伝です。文庫になっていて、手に取りやすい本です(2)。
―ものすごく厚い本でもないですね。
―いや、けっこう厚くない、これ。
―藤原定家の八十年近い生涯を描くということでは、ずいぶんコンパクトにまとまった評伝だと思いますよ。かなり多くの和歌を紹介してもいますしね。
―どんな「挫折・不幸」が出てくるのですか。
―家族と社会ですね。母親の死と、主である後鳥羽上皇との確執が重要な出来事として取りあげられています。まずは前者について述べたところを読んでみましょう。「母を喪う」という見出しが付いていますね。
(前略)季節は進んで秋になる。初秋の七月九日、台風めいた強い風が京の街を吹きすぎ、雨をもたらした。このころ父とは住まいを異にしていた定家は、父を見舞った。
七月九日、秋風荒く吹き、雨そそきける日、左少将まうできて帰るとて、書きおきける
たまゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風
返し
秋になり風のすずしく変るにも涙の露そしのに散りける
俊成の晩年の詠を集めた家集『長(ちよう)秋(しゆう)草(そう)』(『長(ちよう)秋(しゆう)詠(えい)藻(そう)』とは別本)は、このとき父子で詠みかわされた、美福門院加賀をしのぶ悲しみの歌を、このような詞(ことば)書(がき)とともに収めている。もとより、同じ贈答歌は『拾遺愚草』にも収められているが、その詞書は「秋、野(の)分(わき)せし日、五条へまかりて、帰るとて」という簡潔なものである。そして、『新古今和歌集』の哀傷歌の巻にも、「母身まかりにける秋、野分しける日、もと住み侍(はべ)りける所にまかりて」という詞書をともなって、定家の歌だけが収められた。俊成の返歌はずっと時代が下って、『玉葉和歌集』にとられている。(3)
―ここまでは残されている資料に基づいて事実と判断できることを記述しています。父親である藤原俊成の家集『長秋草』に記載されている、母親である美福門院加賀が無くなった年の初秋、「左少将」こと藤原定家が訪ねてきて詠み交わした歌について引用し、他の歌集で二人の歌がどのように扱われているかを説明しているわけです。
―亡くなった家族について親子で悲しみを詠んだ歌なんですね。定家・俊成どちらの歌も勅撰集に選ばれているのはさすがですね。
―ただ、この評伝では歌そのものではなく、『長秋草』と『新古今和歌集』の詞書の違いに注目していきます。
この詞書の記述の違いは注目される。初秋に荒く吹いた風を定家は「野分」ととらえた。このとき、彼はあきらかに、常(つね)日(ひ)頃(ごろ)から親しんできた『源氏物語』の二、三の場面を想起していたにちがいない。その一は桐壷の巻で、桐壺更(こう)衣(い)を失ったのち悲しみに沈んでいる桐壷の御(み)門(かど)が、更衣の母をとぶらう使いとして靫負命婦(ゆげいのみようぶ)を遣わす場面である。(4)
―え、「野分」っていう言葉一つでここまでわかるんですか?
―当時の歌人たちは過去の漢詩・和歌・物語の言葉を取り入れることで、三十一文字しかない和歌の世界を広げていこうとしていたわけですから、「野分」という言葉を使う時に「源氏物語」を意識していたとしても不思議は無いですね。「想起していたに違いない」」というのは少し強引な気もしますが。
―国語の授業で「本歌取り」というのを教わりました。その時の説明では、先人の作った名歌の表現を利用して和歌を詠むということだったんですが、物語を意識して詠まれた歌もあったのですね。
―はい。特に「源氏物語」は作歌の上で重要な題材でした。「源氏物語」が長らく読み継がれてきたのには、歌を作る人たちにとっての必須教養だったということも理由の一つなんですよ(5)。この後、「二、三の場面」の例として、「野分の巻」での光源氏の息子夕霧が紫の上を垣間見する場面や、「御法の巻」で夕霧が亡くなった紫の上を思い出している場面が紹介・引用されています。そこから、次のような推測が書かれているのですが、読んでどう思いますか。
野分きめいた風が京の街を吹き荒れた日、伴(はん)侶(りよ)(俊成は『長秋草』で妻のことを「年ごろの友、子供の母」とよんでいる)を失ってぽつねんとしているにちがいない老父を見舞おうと思いたち、家を出た定家は、そのときすでに自らの姿を『源氏物語』の夕霧とかさねあわせてしまっているのである。そして、老父は源氏となってしまっている。それは見たてというべきではないであろう。虚構である『源氏物語』の叙述が、この悲しい体験に遭遇したことによって人生の真実として了解され、定家はおのずとそのような行動をとらされているのである。(6)
―とらされてるんですか…… そこまで言い切っていいのかなあ。
―「源氏物語」のことを意識して和歌を詠むということと、その物語の登場人物に自分を重ね合わせるのって別のことですよね。和歌を作る技法としてだけでなく、そこまで思い入れがあった、という根拠はどこにあるのでしょうか?
―それはもちろん無いですね。あくまでも想像です。とはいえ、自分が苦しい体験をすることで、同じように苦しんでいるフィクションの登場人物の心情が推測しやすくなるということはあるかと思います。それを誇張して書くとこういう表現になるのかもしれません。
―文学ってこういうのが苦手なんですよね。感情の動きが強すぎる感じで。
―では、パトロンである後鳥羽上皇とのすれ違い、訣別について述べた次のような箇所はどうですか? 「院勘をこうむる」という見出しがついていますが、院勘というのは上皇を怒らせて処罰されることです。
(前略)『拾遺愚草』巻下雑の述懐の部分に、自筆本では押紙して(付箋のかたちで)、次のように記している。
承久二年二月十三日、内裏に歌講ぜらるべき由催されしかば、母の遠忌に当れる由申して、思ひ寄らざりしに、その日の夕方にはかに、忌日を憚(はばか)らず参るべき由、蔵(くろ)人(うどの)大(たい)輔(ふ)家(いへ)光(みつ)三度遣したりしかば、書付けて持ちて参りし二首、春山(ノ)月
さやかにも見るべき山は霞(かす)みつつわが身のほかも春の夜の月
野外(ノ)柳
道のべの野原の柳下もえぬあはれなげきのけぶりくらべに
「さやかにも」の歌は、中(なか)務(つかさ)の、
さやかにも見るべき月をわれはただ涙にくもるをりぞ多かる(拾遺和歌集・雑春)
という作により、「道のべの」の作は菅原道真の歌と伝える二首の古歌、
道のべの朽木の柳春くればあはれ昔としのばれぞする (新古今和歌集・雑上)
夕されば野にも山にも立つけぶりなげきよりこそ燃えまさりけれ(大(おお)鏡(かがみ)・巻二)
をとりあわせたものであろう。(略)が、道真は無実であるのに讒(ざん)を負うて憤死した賢臣である。その歌と伝える二首によった「道のべの」の作が寓(ぐう)意(い)的に解されたのは当然であった。(7)
―引用が多くて読みにくいですね。最後の方に菅原道真が出てきますが、太宰府に左遷されたまま死んでしまって、都に祟ったという話はマンガで読んで知ってます。でも、「無実であるのに讒(ざん)を負うて」ってのは何ですか?
―この本の後の箇所でもふれられているんですが、政治上のライバルである藤原時平が醍醐天皇に、菅原道真が天皇を廃位させようとしているという讒言、つまり事実と異なる天皇を怒らせるような告げ口をした、と言われているんです。
―なるほどなるほど。藤原定家は菅原道真と自分とは同じように讒言のせいで不遇な立場にいる、という意味を込めて道真の歌をふまえた歌を作った、という話なんですね。実際にそうだったんですか。
―では、その箇所を引用してみましょうか。
定家にはやはりひそかに自身を道真に擬す心が潜んでいたのであろう。あたかも醍(だい)醐(ご)天皇の周辺における藤原時(とき)平(ひら)のように、院の側近には謀臣・談臣がたくさんいる。そして賢臣たる自身は下積みの嘆きをしている。そのような欝(うつ)屈(くつ)した思いがはしなくもこういうかたちであらわれてしまったのであろう。慧(けい)眼(がん)な、というか敏感な院はそれを見ぬいた。そして、怒った。院には思いあたることがあったのでもあろう。痛いところを突かれただけに、その怒りもはげしかったのであろう。定家は閉門して謹慎の意をあらわした。(8)
―別に定家は讒言のせいで左遷されたりしたわけじゃないんですね。
―でも、自分はもっと重用されるべきだ、と思っていて、その気持ちが歌に表れていますし、また院、つまり後鳥羽上皇にも心当たりがあったので怒ったのだ、という意味づけをしていますね。
―定家が「閉門して謹慎」した、というのは事実なのでしょうか。
―当時の天皇は後鳥羽上皇の皇子だったのですが、彼の日記『順徳院御記』に「閉門す」とあるそうです(9)。
―それが、藤原定家の社会にかかわる挫折なのですね。作品とか、当時の記録とか、いろいろな材料を組み合わせて、とても辛い状況があった、と強調しているのですね。他の評伝も同じような感じなのでしょうか。
―では、もう一人別の作者の例をあげましょう。やはり有名で古文の授業でも使われている「徒然草」の作者の評伝です。
―あ、兼好法師ですか。去年の授業で、最近これまで兼好について信じられてきた説が否定された、という話を聞きました。
―ああ、「中世文学講読」では『兼好法師』(10)の新しい説も紹介しているんですね。ただ、ここで取りあげるのはその新説が出る前に書かれた評伝なのですが、たとえばこういう感じです。二種類の評伝をあげますが、どちらも兼好が出家した理由を考察しているところです。
すでに述べたように、兼好は、後二条天皇のなくなったあと久しからずして宮廷を去ったが、その点から三十代にはいるころにはすでに出家していたと考えられるわけである。
(略)
時代の中で兼好は何を考えて出家したか、彼の家集の中にある、当時の心境をうかがうに足る歌を取り上げてみよう。
世をそむかむと思ひ立ちし頃、秋の夕暮に、
背(そむ)きてはいかなる方にながめまし秋の夕べも憂き世にぞ憂き(34)
とにかくに思ふ事のみあれば、
尽きもせぬ涙の玉のなかりせば世の憂き数に何をとらまし(35)
本(ほ)意(い)にもあらで、年月へぬる事を、
憂きながらあれば過ぎ行く世の中をへがたきものと何思ひけむ(36)
ならひぞと思ひなしてや慰まむわが身一つに憂き世ならねば(37)
家集で連続しているこの四首(四首目を四角で囲んでいるのは、この歌が最初書かれてあったのを、のちに兼好自身が消したことを示す。家集はそういう添作のあとのある下書き本である)は、ほとんど同時期に詠まれたものと思われる。第一首の詞書に、「世をそむかむと思ひ立ちし頃」とあるのが、出家の意志をかためた時期をさす。
また、歌の中で「憂き世」(第一首)、「世の憂き数」(第二首)、「憂きながら」(第三首)、「憂き世」(第四首)とくりかえされていることから、出家の動機は具体的でないが、何か現世への失望感があったことが想像される。さらに第一首の詞書に、「世をそむかむと思ひ立ちし頃、秋の夕暮に」とあることから、煩悶しつつ出家を決行したのは秋だったであろう。(11)
折しも、後二条天皇が二十四歳の若さで崩御する。徳治三年(一三〇八)八月二十五日のことだった。おそらくこれを機に貴族社会から一旦離脱し、世の中や人間のあり方を見つめ直そうとしたことは、兼好にとって自然な選択だったのではないか。
(略)
兼好が家集をまとめたのは、晩年の頃と言われている。出家当初の心境を詠んだ歌
をこのあたりに並べて書き出しながら、自分が出家にいたったそもそものきっかけのことが自然と心に思い浮かび、そこから後二条天皇追善の歌をここに置いたのではないだろうか。
何が直接の原因で兼好が出家したかは、わからない。あるいは本人にさえ明言はできないかもしれない。しかし、このあたりの歌の配列を眺めていると、家集編纂時の兼好の心の動きが見て取れる。やはり出家の遠因は、後二条天皇の崩御だったのではないだろうか。兼好が後二条天皇の蔵人として宮中に出仕したのは、天皇の生母が堀川基(き)子(し)(西(せい)華(か)門(もん)院(いん))であり、彼が天皇の外(がい)戚(せき)である堀川家の家司だったからと考えられている。ところが、後二条天皇は二十四歳の若さで崩御した。この頃から兼好の心には、出家という人生の選択が次第にはっきりとした形をとってきたのだろう。だからこそ兼好は、出家当初の心情を歌った歌群を並べて書いているうちに、ふとその遠因となった後二条天皇の崩御とそれに続く追善和歌のことを思い出してここに位置付けたのではないだろうか。(12)
―そうそう、ここで言ってる天皇に仕えてたってのが正しくない、というのが新しい説でした。もっと低い身分だったとかなんとか。
―そうなんだ。でも、この二つの評伝ではどちらも天皇に仕えていたことを前提にして、同時期の辛い・苦しいという心情を詠んだ兼好の和歌を参考にして、その天皇の死が出家のきっかけになったのではないか、と結びつけているということでいいでしょうか。
―はい。もちろん、後者では「何が直接の原因で兼好が出家したかは、わからない」と書いた上で「出家の遠因」としているわけですし、前の引用では直接結びつけずに後二条天皇の死と出家の時期の近さについて書いているだけです。でも、兼好についての「物語」を作る時に天皇の死に大きな意味が与えられている、ということは言えると思います。
―これも「社会」にかかわる「不幸や挫折」ということになるのでしょうか。
―出家するのにはかなり大きなきっかけが必要だという発想なのでしょうし、また『エッフェル塔試論』に戻るなら「読者の同情と共感を誘うという手口」なのかもしれません。何しろ六〇〇年以上前の作者のことなので、現代の読者といくらかでも近いような、いわば信頼し頼りにしていた上司を失ったというイメージで描いているということもあるのでしょう。
―でも、先生の立場からすると、こんな風に作品を作者の体験に結びつけるのは納得できないんじゃないですか。
―様々な読み方の一つではあるとは思いますが、私ならこのようには書かないでしょうね。ただ、作者の評伝の多くは生涯の出来事を通して作品の読解を行うことが多いので、「評
伝」というジャンルがこのような書き方を要請してしまうということもあるんです。そもそも評伝は作者についての正確な情報を集めれば、より作品への理解が深まる、という考えが背景にあるのでしょうし。
―以前うかがった作者は近代では特別な存在になったことと関係があるのでしょうか。
―そうですね。やはり作者を特別な体験をした人だ、だから他の人には真似できない特別な作品を書くんだ、という発想があります。だから評伝・伝記というのは極めて近代的なジャンルだと言えます。その前は、今で言う「偉人」に対して正確な情報を集めよう、とかそれを整理してまとめよう、という発想は無かったでしょう。断片的な噂話や伝説めいたものは語られたとしても。
―さっきの話に出ていた兼好が天皇に仕えていたという話も、後の時代に書かれたものに基づいていた、とか講義で聴いた気がします。
―「正徹物語」ですね。確かそのあたりにあったはずです。
―これですか? ええっと、「兼好の徒然草」というところかな。お、後ろに現代語訳が付いてる。「官が滝口の侍であったので、禁中の宿直の番に参って、常に天皇のお側近く仕えたのであった」(13)。はっきり書いてありますね。
―ただ、それを書いた正徹自身は兼好が生きていた時代にはまだ生れていなかったので、全て伝聞なわけです。もちろん、ひとづての話でも正しいことはあるわけですが、正確さよりも話の面白さや教訓性の方が重視されていたのではないかと考えられますね。そもそも今と違って新聞や雑誌といったメディアは無いし、それを収集した図書館も無い訳ですから。「正徹物語」も和歌の制作にまつわるエピソードがいろいろ紹介されていますが、作者を間違えていたりもしますし。
―へえ!
―逆に近代という時代が正確さにこだわり過ぎている、正確さへの追求に取り憑かれているということかもしれないですけどね。とはいえ、読者が〈挫折や不幸〉が描かれた〈物語〉を好む、ということは変わっていないようですが。
―確かに、人の不幸話を嬉々として語る人もいますね。
―この〈物語〉というのは、長く書かれた評伝・伝記だけではなく、密かに作者についてのもっと短い記述にも紛れこんでいるんです。次回は、それについて考えることにしましょう。そろそろ暗くなってきたので、今日はここまでということで。
(1) 松浦寿輝『エッフェル塔試論』ちくま学芸文庫、二〇〇〇年。
(2) 久保田淳『藤原定家』ちくま学芸文庫、一九九四年。
(3) 同前、99-100頁。
(4) 同前、100頁。
(5) 『創られた古典』
(6) 『藤原定家』(前出)、102頁。
(7) 同前、243-244頁。
(8) 同前、245-246頁。
(9) 同前、247頁。
(10) 小川剛生『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』中公新書、2017年。
(11) 桑原博史『日本の作家24 人生の達人 兼好法師』新典社、1983年、101-103頁。
(12) 島内裕子『ミネルヴァ日本評伝選 兼好―露もわが身も置きどころなし―』ミネルヴァ書房、2005年、145頁および150-151頁。
(13) 正徹『正徹物語』小川剛生訳注、角川ソフィア文庫、2011年、222頁。
※久々の更新ですが、先に次の第8章ができあがって、こちらはいい見本を探すのに時間がかかりました。続けて第8章も掲載します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?