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算命学に聞いてみな 第1部番外編「もう元の自分には戻れないのだと知った、その日のこと」
●はじめに
早いもので『算命学に聞いてみな第1部「あなたの人生に納音が来るとき」』も、これにてジエンド。
第1部最終回となる今回は【番外編】として、予告どおり、ふたたび個人的なエピソードをお話しします。
リハビリ病院で社会復帰をめざす日々の中、もう元の自分には戻れないのだと知った、その日のこと。
心に土砂降りの雨が降りそそいだ、ある日の私の物語です。
●リハビリの日々
当時、私は24歳。
発病からそろそろ、1年半が経とうとしていました。
入院病棟の二人部屋をねぐらにした私は、リハビリと読書を黙々と続ける日々を過ごしていました(まだインターネットなんてない時代。本を読むぐらいしかできることがありません)。
大相撲中継の時期になると、夕食後、テレビのある談話室に集まり、他の訓練生たち(ほとんど、おじいちゃん、おばあちゃんばかりでしたが)とNHKの中継に盛りあがったりもしましたが、基本的にはいつもひとりです。
同世代の人なんて、ほとんどいませんでしたしね。
私は杖を突き、ひとりで院内を歩けるようになっていました。
全快にはほど遠い状態ではあるものの、そのころになってみると「ここまで回復できたのは奇跡だったのではないか」と思ったりしながら、私はリハビリを続けていました。
なにしろ自発呼吸が戻ってきたのは、発病から4か月後。
しかもその後も全身麻痺は続き、当初医師たちが想定したより、私の回復は恐ろしいほど遅々としたものだったのです。
ここまで回復できたことを、神に感謝せずにはいられませんでした。
しかしそれでも、私はまだリハビリ途上の訓練生。
もっともっと、がんばらなきゃ。
だってまだまだ、治るはず。
心から、そう思っていました。
「PT(理学療法)」(身体全体の筋力回復などを主とした全身リハビリ)と「OT(作業療法)」(社会復帰後の日常生活を支障なく送るための、細々とした作業動作リハビリ)――。
毎日やることは同じで、いつしか代わり映えしなくなっていましたが、それでも私は昨日と同じ今日を、希望を胸に、来る日も来る日も淡々と繰りかえしていました。
●突然の入浴訓練
PT(理学療法)を担当してくれていたのは、Y先生という40代の療法士でした。
男性です。
度の強そうな分厚い眼鏡をかけ、いつも神経質そうなピリピリした雰囲気をまとっていましたが、なぜだか私には優しく、「暇ならこれでも使って遊べ」と、私物のパソコンまで貸し与えたりしてくれました。
(パソコンといっても、当時はWindowsもまだない時代。それなりの知識がないと動かすこともできないころで、残念ながら、私はすぐに挫折しましたが)
そんなある日のことでした。
今日は入浴の訓練をすると、Y先生が言いました。
余談ですが、その病院の大きな売りのひとつは「温泉病院」であることでした。
訓練生たちは、リハビリなどを終えると公衆浴場顔負けの広さを持つ風呂場で、めいめい好きなように温泉を満喫できます。
ひとりで風呂に入れない訓練生は、いつか自分にもそんな日が来ることを夢見て、過酷なリハビリの日々を過ごしました(私もかつてはそんなひとりでした)。
変だな。
私は思いました。
だってもう、私はひとりで入浴できるようになっていたからです。
みんなが使う風呂に初めて入れるようになったときは、Y先生に見守ってもらいながら(もちろん向こうは着衣のままです)おそるおそる入浴し、気持ちのいい温泉に肌を温められ、身も心も癒やされる思いがしたものでした。
――それなのに、また?
私はそう思いながら、先生といっしょに男性用の共同浴場に行きました。
午後の訓練がまだ始まったばかりの時間帯。
思い思いのリハビリに、みんな精を出しています。
風呂には誰もいませんでした。
大きな磨りガラスの窓越しに、昼下がりの陽光が天使のはしごのように射しこんでいます。
銭湯ほどの広さを誇る湯船から、温かそうな湯気がもうもうと湧きあがっています。
「さあ、入るぞ」
広々とした脱衣所に入ると、先生は私をうながしました。
私は先生にうなずき、着ていた訓練着(何の変哲もないジャージの上下です)を脱ぎはじめました。
するとどうでしょう。
見ればY先生も、いっしょになって療法士のユニフォームであるケーシーを脱ぎだしたではありませんか。
「えっ。先生も入るんですか」
思わず私はそう言いました。
すると先生は「おう」とかなんとかゴニョゴニョと言い、見る間に裸になって私を煽ります。
ケーシーの上からでもわかっていたことですが、Y先生の身体は鍛えあげられ、とても筋肉質で引き締まっていました。
ストイックな人でしたので、自分が自由になる時間に、黙々と身体作りをしていたのでしょう。
理学療法の仕事は、もちろん頭脳も使いますが、過酷な肉体労働でもあります。
体力なしにはできません。
一方の私は病みあがりというか、まだ病んでいる最中ともいえる状態で、正視に耐えられないほど痩せていました(人工呼吸器に繋がれていた時は、35キログラムまで体重が落ちました)。
先生に介助されながら、浴室に入りました。
湯を使って裸身をぬぐい、ふたりで湯船につかります。
先生は眼鏡を取り、素顔でした。
私が風呂に入る一挙一動をチェックしたり、介助してくれたりしながら、Y先生は何度もうなずき、ほどよい湯加減の風呂に肩までつかると、気持ちよさそうにため息をつきました。
私と並んで座り、浴槽の壁にもたれて、両手で顔をぬぐいます。
●裸の語らい
先生との雑談が始まりました。
最初は、病院の共同浴場にまつわるうんちくを聞いたのだったと思います。
とにかく物知りな先生で、ちょっとした雑学博士。
訓練の間も、いつも私は先生が教えてくれるさまざまなうんちくに感心しながら、リハビリと取り組んでいました。
やがて先生は、私との思い出話をはじめました。
珍しいことでした。
最初に私を見たとき、「これはたいへんな患者がきた」ととまどったこと。
どんな訓練が効果的で、どうしたらこの若者を回復させてやることができるかと、プレッシャーを感じながら試行錯誤し、主治医や作業療法士とも相談しながら今日までプログラムを作ってきたこと。
「よくここまで回復したと思う。がんばったな、ほんとに」
Y先生はそう言い、はじめて私を誉めました。
私はいやな予感がし始めていました。
先生の隣で話を聞き、おとなしくうなずいてはいましたが、心の奥底に湧きあがる思いは、疑念というどす黒い雲をはらんだ重たいものでした。
その後、先生がどんな言葉で私にそれを伝えたのか、今となっては記憶にありません。
先生の話を聞いている途中から、頭が真っ白になっていったせいもあるでしょう。
――リハビリのプログラムは、もうこれで終了だ。やるべきことはすべてやった。もうこれ以上、なにもない。
要するに、Y先生が私に伝えようとしていたのは、そういうことでした。
このあと正式に、主治医から通達があると思うけれど、これ以上この病院にいてもできることは限られる。
それよりも本格的な社会復帰をめざして早めに退院し、あとは日々の生活の中で、これからどうするかを両親や家族とともに考える時期に来ている――Y先生は、いつもより固い声で私に説明しました。
そうか。
そういうことか。
先生の話を聞きながら、ようやく私は理解しました。
もうこれ以上は治らないんだな。
私はこれからの人生を、この身体とともに生きるのか。
全身麻痺の寝たきり状態から奇跡的な回復を果たし、ここまでの状態に戻ることはできたものの、ここが限界。
これ以上、元に戻ると期待してはいけなかったのだと、ようやく知りました。
言われてみれば、身体の機能回復は、もうずいぶん前にストップしていました。
脊髄から遠くなればなるほど回復に時間がかかるのだと、K病院の主治医から説明されたことがありましたが、たしかにその段階でも、私の手や足の末端には、麻痺の名残が色濃く残っていました。
そうか。
そういうことか。
Y先生の声が脳内に反響するのを他人事のように思いながら、私は先生の話に機械的に相づちを打ちました。
先生が冗談っぽいことを言えばいっしょになって笑ってみせ、真剣な口調で励ましてくれれば、真面目な顔に戻って「はい」「はい」といつものようにうなずきました。
しかし、それも限界でした。
私は「うー」とうめきました。
気づけば子供のように号泣していました。
恥ずかしい。
そう思いました。
24歳のいい大人が、なにを泣いている。
絶対に人前では泣かないと、いつか決めたはずなのに。
そうは思うのですが、あふれる涙をどうすることもできません。
「うー。うー」
「…………」
先生は、困ったように押しだまりました。
なにも言いません。
うなだれてしゃくりあげる私の頭を、やさしく何度もポンポンとたたき、天井を見上げて、私が泣きやむのをじっと待ってくれました。
「○○くんなら大丈夫だと、俺は思ってる」
私の嗚咽が一段落すると、ようやくY先生は、いつもと変わらぬ調子で言いました。
「よく、腐らないでここまでがんばった。これからも負けちゃだめだ。○○くんなら、いろいろなことに負けないで生きていけるって、俺は思ってるよ」
私はもう先生の顔を見ることができませんでした。
もう泣くまいと唇を噛むのですが、あんなに泣けたことも、私の人生にそうはありません。
さらにひとしきり泣いたあとでした。
先生は何度も風呂の湯をすくって顔をぬぐい、「おい、そろそろ上がるか」と私をうながしました。
「先生」
私は湯船から立ち上がろうとする先生を見上げ、言いました。
「ありがとうございました」
先生は困ったように私から目をそらし、「のぼせちゃうぞ。上がろう。上がろう」と、私を湯船から立たせました。
私に顔を見せまいとしているように思えました。
そんな必要、まったくなかったのに。
そもそも私の視界は霞み、世界はグチャグチャのドロドロでした。
●退院の日
それから退院までは、あっという間でした。
比較的大きなリハビリ病院とは言え、病床の数は限られています。
私が退院するのを今や遅しと待っている待機組の人も、それなりにいたことでしょう。
退院の日。
父と母が車で迎えに来ました。
私は主治医やお世話になった病院のスタッフたちに、ひとりひとり挨拶に回りました。
理学療法の訓練室を訪れると、Y先生はいつもの清潔そうなケーシーに身を包み、訓練生のリハビリをしている途中でした。
私と母の姿を目に留めると訓練を中断し、足早に近づいてきます。
「この子は大丈夫ですよ」
平身低頭して感謝を告げる母に、いつもと同じクールな様子でY先生は言いました。
「元気でな」
私を見つめ、握手を求めてきます。
杖を突いていた私は、自由になるほうの手で先生の手を握りました。
強い力が、私の手をギュッと包みます。
先生は、私を見つめました。
それ以上何も言いません。
しかし私は言葉ではなく、思いがけないほど強い手の力に、先生の気持ちを感じました。
深々と、私は頭を下げました。
そして私は、世話になった入院病棟の看護師たちに見送られながら、1年2か月という長い時間を過ごしたK病院を、両親とあとにしたのでした。
最悪の時期に比べたら見違えるほどの回復を果たしたとはいえ、発病前の自分とはほど遠い状態からの、人生の再出発。
私はすべてを失っていました。
本当に、なにもありません。
――これからどうしよう。
そう思いながら車の後部座席で振り返ると、暮らし慣れた病院の建物は、見る見る小さくなって視界から消えていきました。
結論から言うと、その後私は2年ほど、実家に引きこもったような暮らしになりました。
人生は、テレビや映画、小説とは違います。
しかも私は、人より特別恵まれた才能があったわけではありません。
凡人にとっての最後の砦である「学歴」さえ、ありません。
誰からも必要とされない、無用の長物。
世界から完全に切り離されたような感覚。
社会に出て働きはじめた友人たちが、やたらまぶしく見えました。
孤独。
孤独。
孤独。
虚無。
虚無。
虚無。
「自殺」という言葉が脳裏をかすめたことも、一度や二度ではありませんでした。
しかしそれでも、やがて私はもう一度、人生をやり直そうと動きだします。
そんな私がたどった人生の行程。
そこで出逢った、さまざまな人々。
算命学との本格的な出合いはまだ先の話ですが、あとになって調べてみると、私の人生や私の周囲の人々の数奇な運命を、算命学はこれまた空恐ろしいほどの精緻さで、あれもこれもと炙りだしていました。
それらについては第2部以降でお話しします。
【次回予告】
第2部「天中殺の20年とその先の光」
第1回「『0』だけの世界に『1』が加わる」
一難去ってまた一難。
考えてみれば私たちの毎日は、そのくり返しではないでしょうか。
しかしそれでも「動く」ことをしなければ「氣」というものは活性化されず、「運」の援護が得られなくなることも、また事実です。
私は動きはじめました。
見えない力が、私を導いてくれているように感じました。
さまざまな人との出逢いによって、引きこもり生活から一転、私は社会復帰へと、人生の舵を向けていきます。
ところが、そんな私を待ちかまえていたのは、20年間の「大運天中殺」でした。
そのとき私は、29歳。
そんな時代の話を、算命学の不思議なうんちくとともに、第2部ではしていきます。
乞うご期待!
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