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Books, Life, Diversity #0

このアカウントは、コロナウィルスの流行に伴う様ざまな困難のなかで生じた出版文化の存亡の危機に対して、自分にできることをするために作ったものです。定職のない野良人文学研究者にできることなどほとんどないかもしれませんが、それでも、これまでの人生で触れてきたすばらしい本たちを紹介し、それによって少しでも作者や出版社、そして書店の売り上げにつながってくれればと願っています。以降(既に#6までは投稿済みですが)ここでは一回の投稿毎に「新刊本」、「表紙の美しい本」、「読んでほしい本」という三つのカテゴリーから一冊ずつ紹介していきます。

なお、私のプロフィールについては

をご覧いただければ幸いです。フリーランスのプログラマをしつつ、野良野良と気楽に研究をしています。

とはいえ、本と共に生きてきた自分のプロフィールは、やはり本を通してお伝えするのがいちばんかもしれません。ここではこれまでに読んできた本のなかから心に残っている言葉の断片を特に意図もなく並べることで、何となく私という人間の紹介になれば良いなと思います。実際には1000並べても並べきれませんが、まずは50の断片から。

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本を読まないということは、そのひとが孤独ではないという証拠である。
太宰治『人間失格/グッド・バイ』岩波文庫、1995年(19刷)、p.206
ごく少数の読者によってでも確実に読みつづけられればそれでいい。じわじわ燃えつづける泥炭の火みたいに、それはそれですごいエネルギーなんだよ。出た途端に何十万部ポンと売れるような物しか読まない読者だけを相手にしていたんではだめなんだ。
安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1994年(5刷)、p.114
人間は書物を読むのではなく、読むことで自分自身を読む。同じように、彼は絵画を観るのではなく、その絵画を観ることで自分自身を観るのだ。
コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』秋山和夫訳、ちくま学芸文庫、1996年、p.208
私はいままで、自分こそあの山の実在を確信するただひとりの人間だと信じていたのです。今日、それが私たち二人になったわけで、明日は十人、いやもっとふえるかもしれない――そうなれば、探検を試みることができるでしょう。
ルネ・ドーマル『類推の山』巌谷國士訳、河出文庫、1996年、p.11
私たちが二人になったという事実が、すべてを変えるのです。仕事が二倍だけ容易になるということではない、不可能だったことが可能になるのです。
ルネ・ドーマル『類推の山』巌谷國士訳、河出文庫、1996年、p.43
努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。
サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、1995年(57刷)p.6
みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどもももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も化学と同じようになる。
宮沢賢治『ポラーノの広場』新潮文庫、1995年、p.323
雄々しく堪え忍ばねばならぬ。ここが神よりもお前たちのすぐれているところである。神は災難に堪えることの埒外にあるが、お前たちは災難に堪えることを乗り越えているからである。
セネカ『怒りについて』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1996年(6刷)、p.217
ぼくは自分が信じていないものに仕えることをしない。それがぼくの家庭だろうと、祖国だろうと、教会だろうと。ぼくはできるだけ自由に、そしてできるだけ全体的に、人生のある様式で、それとも芸術のある様式で、自分を表現しようとするつもりだ。
ジョイス『若い芸術家の肖像』丸谷才一訳、新潮文庫、1994年、p.385-386
ほんとうの敵対者からは、限りない勇気がお前のなかに流れこんでくる。
カフカ『夢・アフォリズム・詩』吉田仙太郎訳、平凡社ライブラリー、1996年、p.157
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
太宰治『晩年』新潮文庫、1995年(95刷)p.7
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。
太宰治『晩年』新潮文庫、1995年(95刷)、p.23-24
精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。
サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、1995年(57刷)、p.205
僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。
宮沢賢治『ポラーノの広場』新潮文庫、1995年、p.321
また、危害、損失、悪口、嘲笑を軽んじ、かつ崇高な精神をもって、長くはない不幸を堪え忍ばねばならない。人々も言うように、われわれが後を見返り、左右を見回している間に、やがて死の運命は近付くであろう。
セネカ『怒りについて』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1996年(6刷)、p.182-183
でも、お願いだからさ、父さん、僕たちお互い、人を笑わせるようなものを書こうよね、お金になんかならなくてもいいからさ。だって、人人が笑わなかったら、人生なんて何の意味もありゃしないじゃない?
サローヤン『パパ・ユーア・クレイジー』伊丹十三訳、新潮文庫、1997年(17刷)、p.204
美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。
ブルトン『ナジャ』巌谷國士訳、白水uブックス、1996年(6刷)、p.163
もし生きて帰れたら、ほんとうにしたいことをして生きようと思う。たくさんの絵を眺め、音楽を聴き……そう、聞くんじゃなくて聴きいるんだ。昔から絵を描くのは好きだった。だったら画家になればいいさ。
ウィリアム・ウォートン『クリスマスを贈ります』雨沢泰訳、新潮文庫、1992年、p.294
キリスト像はうんざりしているように見えた。コランはたずねかけた。「どうしてクロエは亡くなったのでしょうか」「その点についてわたしは何の責任もないのだ」とイエスが言った。「ほかのことを話しあったらどうかね……」
ボリス・ヴィアン『日々の泡』曾根元吉訳、新潮文庫、1998年、p.281-282
「じゃあ、何がほしいんだね、〈存在〉?」「わたしがほしいのはもうすでにもっているものだよ! 永遠の驚異を、永遠にみたして……永遠でさえない、無限というだけだが、そこにこそすべての美があるんだ」
ブルース・スターリング『スキズマトリックス』ハヤカワ文庫、1988年(3冊)p.497
ブルトンから得たところは一口で語りつくせるものではなく、ブルトンの言葉をじかに聞く以外に途はないが、敵をつくる生き方を教わったことも大きな収穫の一つである。
生田耕作『黒い文学館』中公文庫、2002年、p.86
ぼくの意見主張が通ったことは一度もない。多数決で決められるとどうしても負けてしまう。主張の正否とは関係ないんです。これが現実です。そしてぼくは、エマ・ゴールドマンの言葉のように、多数派は間違っている、少数派が常に正しいと信じています。
生田耕作『黒い文学館』中公文庫、2002年、p.98
一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ? すべてが失われたわけではない――まだ、不屈不撓の意志、復讐への飽くなき心、永久に癒すべからざる憎悪の念、降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ!
ミルトン『失楽園』平井正穂訳、岩波文庫、1997年(32刷)、p.12-13
ほかに服従しようがないから、命令するのだ。このほかに、みんなとともにいるしか仕方がないから、おれは頭上のあのからっぽの天を相手に孤独にとどまるのだ。なすべきこの戦いがある。おれはやるつもりだ。
サルトル『悪魔と神』生島遼一訳、新潮文庫、1977年(7刷)、p.248
ああ! 神々が存在すれば、永遠の苦しみの代償として、どんな神聖な思想も、どんな未来の報いも、何ものも人間存在の終焉は正当化できないことをあの犬たちのようにわめくこともできようものを。
マルロー『王道』渡辺淳訳、講談社文芸文庫、2000年、p.250-251
胸の秘密、絶対ひみつのまま、狡知の極致、誰にも打ちあけずに、そのまま息を静かにひきとれ。やがて冥土とやらへ行って、いや、そこでもだまって微笑むのみ、誰にも言うな。あざむけ、あざむけ、巧みにあざむけ、神より上手にあざむけ、あざむけ。
太宰治『二十世紀旗手』新潮文庫、1998年(38刷)p.170-171
どんな片隅にでも儀式嫌悪の手触りがあるかぎり、それは希望のたしかな感触なのである。
安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1994年(5刷)、p.62
剣に魂を突き刺されたときに肝要なのは――落ち着いて眺めること、血を一滴も失わないこと、剣の冷たさを石の冷たさでもって受け入れること。突かれたことによって、また突かれた後、不死身となること。
カフカ『夢・アフォリズム・詩』吉田仙太郎訳、平凡社ライブラリー、1996年、p.97
天空は沈黙している。ただ沈黙する者に対してだけは、こだまを返す。
カフカ『夢・アフォリズム・詩』吉田仙太郎訳、平凡社ライブラリー、1996年、p.106
自分で自分を革命できる者が、革命的なのだろう。
ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳、青土社、1999年、p.129
役者はたくさんの役を演じることができるが、最後に自分は人間として死ぬことになる。
ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳、青土社、1999年、p.145
神という観念を創造したのは、気違いじみた愚行です。私は、無神論者ではないとか信仰者ではないとかすら言いたくない。それについて話したくもないのです。
デュシャン『デュシャンは語る』岩佐鉄男、小林康夫訳、ちくま学芸文庫、1999年、p.226-227
コミュニケーションは、責任を負うている相手への接近という犠牲をとおしてのみ可能となる。危険な営みとしてのみ、冒すべき大いなるリスク(beau risque)としてのみ、他者とのコミュニケーションは超越的なものでありうる。
レヴィナス『存在の彼方へ』合田正人訳、講談社学術文庫、2008年(9刷)p.278
「もう少し手を握っていてくれるかい」彼女は尋ねた。「もちろんだよ。ずっとね」「よかった」彼女は言った。「一人にしないで」
ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』高橋源一郎訳、新潮文庫、1991年(2刷)p.243
こんなものは、もうたくさん! 真理の一言が聞きたい。聞くに足る言葉をこそ! さもなければ、投げられた石のように、生から死へと、一気に落ちてゆくばかりだ。
ソール・ベロー『雨の王ヘンダソン』佐伯彰一訳、中公文庫、1988年、p.422
ぼくの知りたいのは、いったい、なぜあらゆる人間が、このために苦しまなきゃならないかってことだ。本来の自分に帰るってぐらい、むずかしいことはまたとないからね。ぼくらは、その代わり、いろんな傷を身につくってゆく。
ソール・ベロー『雨の王ヘンダソン』佐伯彰一訳、中公文庫、1988年、p.467
おまえたちには、苦悩の能力がないのと同じ程度に、愛する能力においても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。
太宰治『人間失格/グッド・バイ』岩波文庫、1995年(19刷)、p.194
真の正義とは、親分もなし、子分もなし、そうして自身も弱くて、何処かに収容せられてしまう姿において認められる。重ね重ね言うようだが、芸術においては、親分も子分も、また友人さえ、ないもののように私には思われる。
太宰治『人間失格/グッド・バイ』岩波文庫、1995年(19刷)、p.193
いや、余白はいつだってじゅうぶんに決まっている。いくら落書きにはげんでみたところで、余白を埋めつくしたり出来っこない。いつも驚くことだが、ある種の落書は余白そのものなのだ。すくなくも自分の署名に必要な空白だけは、いつまでも残っていてくれる。
安部公房『箱男』新潮文庫、1994年(24刷)、p.211-212
「聞いてくれよ」とサイムが異様な声でいった。「君たちに、この世界の秘密を教えてやろうか、それはわれわれがこの世界のうしろしか知らないということなんだ。われわれは何でもうしろから見て、そしてそれはひどいものに見える。あすこにあるのは一本の木ではなくて、木のうしろなんだ。あれは雲ではなくて、雲の背中なんだ。すべてのものが前かがみになって、ひとつの顔を隠していることがわかるじゃないか。もしわれわれが前に回ることができたら、――」
チェスタトン『木曜の男』吉田健一訳、創元推理文庫、2000年(25刷)、p.215
ぼくらの意識は笑いによって身軽になる。その身軽さは、処刑台に連れてゆかれるには少々重い靴底を持っているぼくらの慰めとなる。みせかけの重々しさは、笑いが魂についてぼくらに何ごとかを教えてしまうので、笑いを嫌悪している。笑いは、みせかけの重々しさをまるで稲妻のように暴露してしまうのだ。
コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』秋山和夫訳、ちくま学芸文庫、1996年、p.177
しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ眼で、私を見凝めていった。「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。
大岡昇平『野火』新潮文庫、1995年(79刷)p.129-130
「ほんとうのこと言えば、そんな先の成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな。」「ん、もう一回だ!」そして、彼らは、立ち上がった。――もう一度!
小林多喜二『蟹工船 一九二八・三・一五』岩波文庫、1992年(62刷)、p.114-115
「憎む、たって、誰を憎めばいいんだ。教えてくれよ」「誰を愛してる……」
ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1991年(14刷)、p.426
この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」さようなら。
太宰治『パンドラの匣』新潮文庫、1994年(40刷)、p.340
メシアはやってくるだろう――もはや必要なくなったときに。到来の日より一日遅れてやってくる。最後の日ではなく、とどのつまり、いまわのきわにやってくる。
カフカ『カフカ寓話集』池内紀訳、岩波文庫、1998年、p.51
生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。
ブルトン『シュルレアリスム宣言・熔ける魚』巌谷國士訳、岩波文庫、1992年(2刷)、p.84
だけどまあ、つまるところは、いい人生だしいい世界だよ、こっちがへこたれさえしなければ。そして大きな広い世界にまだ挨拶状を出してないことにちゃんと気づいてさえいれば。
シリトー『土曜の夜と日曜の朝』永川玲二訳、新潮文庫、1992年(19刷)、p.303
なぜおまえは目覚めているのだ? 誰かが目覚めていなくてはならないからだ。誰かがここにいなくてはならない。
カフカ『カフカ短編集』池内紀訳、岩波文庫、1995年(26刷)、p.178
人が出かけていくのは、そこに行くように駆り立てられるからだ。人は、他者が、彼または彼女が、ひとりきりで死んでいくことのないように出かけていくのである。
リンギス『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二訳、洛北出版、2007年(3刷)、p.222

そんなこんなで、この苦しい状況がどうにか落ち着くことを願いつつ、無理ない範囲で続けていければと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。

この一連の記事では、出版支援として以下のプロジェクト/情報へのリンクを毎回貼らせていただきます。


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