#建築をスキになった話-答えがない分野に出会った学生時代-
ロンロ・ボナペティ|建築ライターさんが企画をし
ヤマシタマサトシ(OFFRECO/インテリアデザイナー)さんからのバトンを受け取ったので、
建築をスキになった理由
について書いてみたいと思います。
答えのないことを探していた高校時代
僕は小学校2年生から塾に通っていました。まさにスパルタ教育。塾では3人くらいしか入れない東大を目指す「ハイクラス」という枠に入っていたことを覚えています。
勉強が全てだと感じていましたし、一心不乱に勉強をしていたと思います。
でも小学校4年生の時に出会ったバスケットボールや阪神淡路大震災の経験(小学校5年生)あたりから勉強以外の生きがいの大切さを感じるようになって、急激に成績を落としました。マセガキです(笑)
当たり前に親は落胆しましたが、僕にとっては諦めてくれた方が楽でした。
中学1年生の時に阪神淡路大震災の影響からPTSDを患っていることが判明し、ここから大学3回生まで隔週で病院通いが始まりました。
僕は腕で採血ができません。採血のし過ぎで血管が蛇行しているそうなのです。今は手の甲で採血をします。
そして高校3年生の時に保育園の0歳クラスから一緒だった親友を事故で亡くしました。
この時に「生きるとはどういうことか」「何か意味があるのか」などを考えるようになりました。
学部を間違えた大学生活
大学受験はもうどこでも良くて、姉が進める「家具などを作る」ことができる大学を探し、家から一番近い大学を受験しました。
他にもセンター試験の結果で推薦が取れていましたが、もう本当にどこでも良かったと記憶しています。
で、合格が決まって初めの授業で衝撃が走りました。
自分が18年間住んでいたマンションが紹介され、先生が解説をされていました。
いや、自分が住んでいたマンションが紹介されていたのが衝撃だったのではなく
「家具などを作る」
学科ではなかったからです。そう、行きたかった学科はプロダクトデザイン学科でした。
学科を間違えてしまったのです。編入について聞いてみると3回生の後期から編入できると聞かされました。あれは本当だったのか今でも気になっています...。
もう大学1、2回生は遊びに遊びほうけました。
夜カラオケにオールで行って、朝友人の家で寝てまた夜オールに行くと行った具合にずっと遊んでいました。
だから大学の同級生は、僕が今のような仕事をしていることは信じられないと思います。
3回生の時に目撃した現学長と元学長の議論
3回生になる前の最後の課題が小学校の設計でした。僕は最後くらい本気で課題と向き合ってみようと思い、遊びに使っていた全精力を課題にぶつけました。
中間発表の時から30分の1の模型を使ってスタディーをし(小学校の設計だったのでかなり大きかったと記憶しています)、誰もいない作業スペースで将来妻となる彼女と2人で課題に向き合っていました。
そして講評会では教授がみんなの前で「これくらいのスタディーをやってほしい」と褒められました。
恥ずかしながらその時の小学校の設計課題です。
少しやる気の出た僕は最終講評で人生を変えるものを見てしまいました。
それは、僕が設計した小学校の屋根の高さについて現学長(今の)と元学長(前の)が議論を始めたのです。
「屋根はもう少し高い方が良い」
「いや、低く抑えた方が景観として良い」
僕は何も言えず、ずっとこう思っていました。
先生同士でも意見が異なるのか
僕は答えのない分野にいることに気がついたのです。
もう少し建築という分野を勉強してみたいと思った僕は編入をやめ、そのまま建築学科にいることにしました。
そして次の課題でもまた衝撃がありました。
講評を拒否されることで核心に変わった答えのない分野の楽しさ
次の課題は地区詳細という課題で、神戸の海沿いの再開発の課題でした。
そこで僕は建築が自然に変わっていく様を建築物で表現するという設計を行いました。木を抽象化することで建築と自然の媒体となり、建築が自然へと回帰するという作品です。少し難しい言葉を使いましたが、そんな説明をしたと記憶しています。
担当の先生からも一定の評価を受け、自信を持って最終講評に臨みました。
最終講評で、その時に非常勤で来られていたランドスケープの先生がマイクを持って一言。
「こんな作品講評したくない」
僕はその時「やっぱり答えがない分野だ!」と感じました。
答えのないことを探していた高校時代からやっと自分が打ち込めるものを見つけた気持ちでかなり高揚していたと記憶しています。
でもやはり「こんな作品講評したくない」は仕事放棄だと思い、個人的な好き嫌いで教育現場にいるんじゃない!と思いながらも、卒業論文・卒業制作へ向かうことになりました。
ここまで書いてきて、建築をスキになった理由が、こんな建築に出会ったからとかこんな先生に師事したからといった理由ではなく、建築という分野が自分が求めていた「勉強のような答えを求める分野ではなく、生きる意味のような答えのない(答えが多い)分野」だったからだと思いました。
ここまで読んでいただいた中で「あれ?竹鼻は意外にクラシカルな建築を学んでいるじゃないか」と思われた方もいると思います(笑)
僕の人生を変えたのは大学院1年生の夏。
22歳の時でした。
今回の「建築をスキになった話」の先に「自分なりの建築を見つけた理由」があります。
これについては「無意識へのシナリオ」にも書いていますが、またいつか機会があれば書こうと思います。
スキになった理由は、スキになる前の人生にも大きな影響を受けています。だから自分にとっては普遍に近いほどの自己主張があるのだとも考えています。
久しぶりに初心に変えることのできたこの記事は大切にしたいと思います。
竹鼻良文/TAKEHANAKE代表
TAKEHANAKE design studio HP
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