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40代、ドレスと学問は両立できるか?

この文章は、國學院大學とnoteで開催するコラボ特集の寄稿作品として主催者の依頼により書いたものです。

 学びは、わたしたちを、思いもよらない素敵なところに運んでくれる船だと思う。

 3年前の今ごろ、わたしは40代後半で通信制大学に入学することを決めた。ドレスをつくる仕事と、学業との両立には不安もあったし、ふたりの子の母でもあるわたしが大学で勉強を始めることは、最初は家族にいい顔をされなかった。

 でもわたしは学びをあきらめなかった。

 そしてわたしはこの春、芸術大学の文芸コースを卒業し、学芸員資格も習得できる見込みとなった。


40代で大学に入った理由

 きっかけは、コロナだった。大好きな旅にも出られず、結婚式で人が集まることが難しくなって、とうとうウェディングドレスをつくる仕事もなくなった。

 ためしに求人を見てみたとき、わたしは「学歴の壁」にぶちあたる。そして、30年ほど前の苦々しい思い出が蘇ってきた。

 ほんとうは、4年制大学で芸術を学びたかった。しかし経済的理由などから両親に反対され、大学に入学することは叶わず、結局わたしは芸術系の短大に入学した。

ゾンビ、あらわる

 短大はものすごく楽しかった。大切な友人たちに出会え、学生生活にはなんの後悔もない。でもときどき、「ほんとうは大学に行きたかったな」という、うじうじした気持ちがゾンビのように蘇ってきてわたしを苦しめていた。

 でもその呪いは、自力で解くことができる。なぜならわたしはもう大人だから。大人、さいこう。そう、大人だって学んでいい。旅に出られないのなら学びという冒険の旅に出るのだ! 

勉強を好きだと言ってもいい

 学ぶことは楽しかった。ここには勤勉さをひやかす人もドリームキラー(※)もいない。もう隠れて勉強しなくてもいい。素直に「勉強が好き」といえる環境がうれしかった。

※ドリームキラーとは、ネガティブな言葉で相手の夢や目標を否定する人のこと。身内や友人などの身近な人に多いとされる。

 大学に入学したことは、しばらくして両親に伝えた。すると母親から「勉強、好きだったもんね」と言われた。わかっていたならどうして? とわたしのなかのゾンビがむくむくと起き上がりそうになったけど、「いま論述が大変でそれどころじゃないんで」と、いったんお引き取りいただいた。

 そう、それどころじゃなかったのだ。論述が苦手すぎて。客観的に述べるべきところに、どうしても主観が入ってしまう。抑えても抑えても湧きあがってくるわたしの感情。どんだけじぶんが好きなんだ。

 最初に出した学芸員資格科目のレポートは、2回も不合格になった。泣いた。

青春じゃん!

 学芸員をあきらめかけていたとき、わたしに転機が訪れた。同じく学芸員を目指す「学友」ができたのだ。わたしたちは昼食をとりながらギリシャ哲学や、芸術論について熱く語りあった。なにこれ、青春じゃん!

哲人たちのマンガを描いたりして

 それでもあきらめなかったのは、学友たちの励みや、「ここであきらめてたまるか」という意地があったからだ。そのうち、論述にも慣れてきた。「じぶん」は無理に抑えなくていい。じぶんならではの問いや切り口もまた学問には必要なのだ。きっと、ドレスをつくってきた経験も。

ドレスと学問は両立できるか?

 問題は、仕事が忙しくなってきたことだった。遠方からの依頼も増え、仕事で旅をすることも増えた。学問と両立するために家族が寝ている間(朝4時!)から勉強したり、5分でもスキマ時間があればテキストを開いた。ドレスを縫っている間は、音声配信で日本史や哲学などの学びを深める時間にあてた。

大学の対面授業の前後に仕事
じぶんを褒めてあげることも大切

 そんなわたしの姿を見て、最初は反対していた家族も、次第に理解を示してくれ、家事を手伝ってくれるようになった。

朝5時台の空

学びがつながる感覚

 そのうち、おもしろいことが起こり始めた。学びと、仕事と、旅がリンクするようになってきたのだ。

 たとえば、近代史を学んでいたら、横浜のお客さまからドレスの依頼があって、出張の合間に「横浜開港資料館」に行けたりだとか。

日本の近代史をみつめてきた横浜開港資料館「たまくすの木」

 また、日本の「繕い」や「衣装」を知るための東北への旅が「民俗学」や「考古学」の学びとつながり、とうとう仕事でも青森県に呼ばれることになった。なんだこれ。

青森の裂織

新しい学びへ

 東北の衣装について調べていると、たびたびあるキーワードを見聞きするようになった。「北前船」である。

北前船(模型)

 北前船とは、江戸中期〜明治にかけて、上方(大阪)を出発し、瀬戸内海経由で日本海側を北上し、北海道まで行き来していた商船群のことである。

北前船 KITAMAE 公式サイト

 この船の存在が、東北の刺し子や裂織さきおりなどの衣装文化に大きな影響を及ぼしたといわれている。わたしはそれをもっと掘り下げてみたくなった。そして、全国の寄港地に行ってみたい。大学院に進学するのか、自分で研究を続けるのか、今はどういう形になるかはわからないけれど、学びの旅を続けていきたいと考えている。

 日本地図を完成させた伊能忠敬は、50歳前後で学びはじめ、50代半ばで測量の旅に出たそうだ。わたしの旅もこれからじゃないか。

おやすみ、ゾンビ

 広島の実家に用事で帰省したとき、大学院進学を考えていることを両親に伝えた。さすがにもう何もいわれなかった。それどころか、父は「北前船」に関する新聞記事を見つけてくれ、母は帰り際にいっしょに立ち寄った尾道で、北前船に関する展示を見つけてくれた。むしろ両親のほうに「北前船」アンテナが立っている!

尾道の北前船模型

 びっくりした。うれしかった。もうゾンビは起きてこなかった。たぶんあの頃の両親はいまのわたしよりもうんと若かったし、いろんな葛藤もあったのだろう。

 ゾンビの正体は、自分の可能性を信じてもらえなくて、拗ねて、いじけていた17歳のわたしだ。おやすみ、ゾンビ。もういいんだよ。

北前船の寄港地のひとつ「尾道」

学びの船に乗ろう

 わたしは今年、新しい学びの船に乗ろうとしている。ひとりで乗り込むつもりだったけれど、振り返ると、両親も、学友たちも、家のことをサポートしてくれていた夫も、子どもたちもいる。そうか、ひとりじゃなかったんだね。

 おや、ゾンビちゃんも。あなたもまだそこにいたのね。そうだよね。あなたがいたから、「ここであきらめてたまるか」って思えたんだもんね。いっしょに行こう、17歳のわたしも。

 学びの船旅はまだまだつづく。いったいどこへたどりつくのか、それはこれからのお楽しみ。


▼関連note


★國學院大學とnoteのコラボ特集「#今年学びたいこと」はこちら

  


 

 

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