太平洋戦争はこうしてはじまった⑫

講和会議で露呈した日本外交の未熟

 第一次世界大戦の終結は、シベリア撤退完了から約7年前のことだ。ロシア革命によって帝政ロシアが崩壊し、1918年にはロシア、ウクライナとドイツ、オーストリアなどの同盟国がブレスト=リトフスク条約を締結。これによって講和がなされ、東部戦線は終結したもののドイツ軍首脳部には厭戦気分が高まっていた。
 同年秋からのドイツ軍による西部戦線攻勢は、アメリカ軍の増援によって失敗し、海軍でもキール軍港にて水兵の反乱が発生した。またドイツ国内でも帝政支配への抵抗運動が過激化し、皇帝ヴィルヘルム二世はオランダへと亡命。11月11日には、ドイツ新政府と連合国の間で休戦協定が結ばれ大戦は終結した。
 講和内容を決める会議は翌年1月18日にパリで開かれ、連合国の一員だった日本も代表団を派遣する。その際、日本政府は3つの方針を決めていた。アジア・太平洋の占領地における権益確保の優先、日本に利害のない諸問題に対する必要最低限の介入、そして連合各国との利害調整だ。
 この利害調整とは、アメリカが掲げた14ヶ条の基本原則に対応することである。その内容は民族自決と国際連盟創設を主軸とする新外交方針であり、日本はこれと協調しつつ、権益の確率を目指したのであった。
 パリ講和会議において、日本の山東半島領有はアメリカの譲歩で容認された。南洋諸島問題ではアメリカが国連委任統治を主張したが、イギリスの仲裁で日本が受任国となる。そして国際連盟の発足が決定すると、日本は常任理事国に任命。その場で日本が主張したのが人種平等条項の実現だった。当時のアメリカには多数の日本人が移民していたが、現地からの差別は激しかった。また、国連が欧米中心の機構になる危惧もあり、連盟規約への人種平等条項の追加を目指そうとしたのだ。
 もっとも、日本政府内では条項の実現は期待されなかったという。実際、日本の提案は中仏と欧州新興国には理解を示されたが、米英などの白人優位国に根強い反対を受ける。追加案は4月11日の会議最終日にまで持ち越され、投票では賛成11、反対5と賛成票が上回りはしたものの、全会一致を重んじるアメリカの主張で採択は見送られてしまった。 
 パリ講和会議は、6月28日のベルサイユ講和条約の調印で幕を閉じる。しかし言葉や情報のハンデで満足な結果は出し切れず、「日本の遅れを痛切に感じた」と証言した外交官もいる。その外交官が、のちに東条英樹内閣の外相を務める重光葵だ。領地の権益保護こそ成されはしたが、講和会議は日本の外交力の未熟さを痛感する舞台でもあったのだ。

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