知られざる太平洋戦争のドラマ④
インパール作戦における宮崎繁三郎中将の奮戦と人情
兵站を軽視した無謀な作戦
1944年3月に開始された「インパール作戦」は、日本陸軍が実施した中でも最悪の作戦として有名だ。
インパール作戦の目的は、インドの国境沿いにあるインパールを制圧して支配していたイギリス軍を押し戻し、中国への補給路である「援蒋ルート」も破壊するという壮大な作戦だった。
この時期のイギリス軍はビルマ(現ミャンマー)での攻勢を強めつつあり、前年の2月にはアラカン山脈を越えて当地を占領していた日本軍を攻撃している。
このような状況に、日本も何らかの手を打つ必要はあった。
だがこの作戦最大の問題は、物資の輸送を家畜に行わせるなど、補給があまりにも軽視されていたことだ。
インパール作戦を指揮したのは牟田口廉也中将だ。当初、この作戦には軍部内でも慎重論があったものの、牟田口は強行する。だが、補給と進軍の問題から日本軍は圧倒的不利に立たされてしまう。一部部隊が無断で撤退するほどの混乱におちいり、そんな中でも唯一最後まで戦い、生還した隊を指揮したのが宮崎繁三郎少将(のちに中将)だった。
政治的センスにも秀でた将校
宮崎は特務機関の出身だったが、歩兵と諸兵科を組み合わせる戦術を得意とする野戦向きの将校でもあった。実際1933年の「熱河侵攻作戦」では、歩兵部隊と砲兵隊の連携戦術で中国軍を圧倒。日本陸軍がソ連軍に大敗した1939年の「ノモンハン事件」でも、ソ連戦車軍団を相手に陣地を停戦まで死守したことがある。
そればかりか、ノモンハンでは停戦直後に部隊名と占領日時を記した石碑を自分の部隊が死守した地域に置いていた。そうすることで日本軍の占領地域を明確にし、のちの「満ソ国境交渉」で奪われる領土を最小限にとどめる結果となった。
これはまさに、政治的センスにも秀でていた証拠といえよう。
また、南方で地元のサルをペットにした話があるように、なかなかユーモアも備えた人物でもあったようだ。
これほど有能な将校であれば、太平洋戦争でもさぞ活躍したと思うだろう。ところが、戦争序盤の宮崎は、大した戦果を残せなかった。なぜなら、後方部隊の第二十六旅団長として前線から遠ざけられたので、まともに戦う機会すらなかったからだ。
対英最前線のビルマに異動したのは1943年3月。その約1年後に参加を命じられた作戦が「インパール作戦」だった。
物資が底をつく中での作戦強行
作戦に参加した三個師団のうち、宮崎の部隊が所属する第三十一師団は、激戦のすえにインパール攻略の要所であるコヒマを4月に占領。しかし5月に入ると、おそれていた事態が現実となる。ずさんな補給によって弾薬と食糧が底をついたのだ。
対するイギリス軍は輸送機からの空輸で十分な物資を得ていて、進軍を停止した日本軍に攻勢をしかけた。
各師団は本部に支援を求めたが、満足な補給はついに得られない。それどころか、牟田口はさらなる攻勢を命令。武器も食料も底をつき、防衛すらままならない状況なのに、だ。
あまりの状況に憤慨した第三十一師団長の佐藤幸徳中将は、独断で撤退を開始する。一方、宮崎が下した選択は、コヒマへの残留だった。みずからが最後尾に陣取り、味方の撤退を支援しようとしたのだ。
人情に満ち溢れた宮崎の行動
4000人いた宮崎の支隊は1000人足らずになっていたが、地形を活かした奇襲に次ぐ奇襲、わざと煙を炊いて大軍に見せかけるなどの奇策でイギリス軍をほんろう。徐々に後退していた宮崎支隊も、6月にようやく撤退命令が下され、本格的な離脱を開始した。
ここで注目するべきは、部隊の組織だった行動と宮崎の人間性だ。
インパール作戦の撤退といえば、日本兵の死骸が散らばった「白骨街道」というイメージが根強い。実際には可能なかぎり埋葬されたともいうが、余裕がなくて見捨てられた兵も多数いた。
だが、宮崎は「部隊が危機に瀕しても負傷者を放置してはならぬ」と部下に言い聞かせ、自分も見つけた死体は許される限り埋葬。息がある者は部隊に加え、ときには担架を運ぶこともあったという。
自分用の食料すらも率先して部下や傷病兵に分けあたえ、常に前線へ立ち続ける宮崎に兵達の士気は高まり、最後まで部隊としての統率を保ったまま生還できたのである。
部下の身を案じる最期の言葉
帰還後の宮崎は、第五十四師団長としてビルマ防衛の任務に就き、シッダン河付近で防衛戦をしている最中に終戦を迎えた。
終戦後、宮崎はビルマの捕虜収容所に入るが、決して卑屈にならず、部下に乱暴したイギリス兵に正面から抗議することもあった。
最後まで規律と人道を貫いた宮崎はインパール作戦の良心と呼ばれ、戦後になって生還者が作戦の無謀さにいきどおったときですら、宮崎の話が出た途端に静かになったという。
そんな宮崎は、1965年に病死。
「敵中突破にあたり、分離した部隊を間違いなく承諾したか?」と、部下の身を案じる言葉を呟きながらの最期であったという。