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高等女学校発足とともにできた新しい概念

 夫にとっては良い妻であり、子どもにとっては賢い母であれ。「良妻賢母」とは、そのような教えだ。漢字四文字の熟語であることから、仏教か儒教の教えのようにもみえる。であるならば、少なくとも江戸時代に生まれたような言葉に思える。だが、こちらもまた誕生したのは明治時代になってからである。
 明治政府は明治5(1872)年の「学制」で学校制度を定め、義務教育をスタートさせる。国民に知識と技術を習得させ、近代化に役立てようとするのが狙いだ。ただ当時の教育論は多様であり、しかも憲法の制定、議会の開設、言論の自由、集会結社の自由を求める「自由民権運動」が起きつつあった。
 自由民権運動は紆余曲折を経て明治22(1889)年の明治憲法公布と翌年の帝国議会開設によって結実するが、政府は自由主義のエスカレートを危惧。忠君愛国精神や皇国史観といった政府に都合のいい理念を植え付けるため、道徳教育の柱となったのが明治23(1890)年に発表された「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」である。
 教育勅語は天皇の言葉として全国の学校に頒布され、「国民は天皇の赤子である」という臣民教育が施される。だが問題は女子の就学率で、明治20年代に入っても30%程度でしかなかった。家族主義制度、家父長制度の影響もあり、「女子に教育は必要ない」との考えがはびこっていたからだ。
 だが、国民の統合や労働力の育成という観点から、女子の教育も必要だとの意見が強くなる。そこで整備されたのが高等女学校教育だ。
 明治28(1895)年、高等女学校規定が制定され、4年後には高等女学校令が勅令(天皇が直接発する法令)として公布された。この勅令には教育内容をより詳しく規定した施行規則があり、第2条に「修身は教育に関する勅語の旨趣に基き道徳上の思想及情操を養成し中等以上の社会に於ける女子に必要なる品格を具えしめんことを期し実践躬行を勧奨するを以て要旨とする」とある。つまりは知的教育より、情操教育や品格の向上、家事の運用に重きが置かれたのだ。
 明治33(1900)年ころから各地で高等女学校が設立される。そんな高等女学校の方針を明言したのが、当時の文部大臣・菊池大麓である。菊池は明治35(1902)年、全国高等女学校長会議で、次のような訓示をする。
「我邦に於ては女子の職と云うものは独立して事を執るのではない、結婚して良妻賢母となると云うことが将来大多数の仕事である」
 これにより、女子教育の目的は「良妻賢母」の育成だと明確になる。ただ、高等女学校や高等女学校令の改正によって開学したその他の女学校も含め、制度成立当初の生徒の出身階層は約60%が旧士族。親の職業も専門職やホワイトカラー層がほとんどで、それ以外でも大店の商家や地主である豪農の娘たちだった。したがって、良妻賢母の教育方針もすんなり受け入れられたのである。
 その後、良妻賢母という思想は女学校だけにとどまらず、一般社会に浸透していく。良き妻・賢い母という理想像は、庶民の間にも広まっていくのだ。
 この良妻賢母。江戸時代の「三従の教え」とは似ているようで異なる。三従の教えは従属を意味するが、良妻賢母は率先して家や家族のために役立つ積極性も含み、子どもの教育にも加担する。「賢い母」とは、「教育ができる母」のことである。
 そこには、家のために働きに出ることも許容する。産業の発達によって労働力不足が懸念される中、国は女性の力も必要としたからだ。ただし、あくまでも補助とみなしてのことであり、女性が男性と同じ待遇を与えられることはなかった。
 家事を仕切り、子どもを教育し、場合によっては自ら働いて収入を得る。女性を家族制度に縛り付けて酷使するというシステムは、このときに生まれたといっても過言ではない。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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