太平洋戦争はこうしてはじまった㊵
盧溝橋事件による日中戦争勃発
満州事変以降、日本の大陸進出は加速を続けていた。1935年6月10日には、天津の親日派新聞社社長の暗殺により天津軍が国民党軍の河北省撤退を要求。南京政府は北平軍事委員分会代理委員長・何応欽と支那駐屯軍司令官・梅津美治郎との間で「梅津・何応欽協定」を結び、これに応じた。さらに満州事変の前例を参考として、同年5月に冀東自治政府を成立させ、華北進出を進める。一方の関東軍も傀儡政権の拡大を目指し、翌年10月には内蒙古の独立運動を扇動していた。このような日本陸軍の行為に中国内では抗日運動が激化する。1936年12月12日には蒋介石が共産東軍に拉致される西安事件が発生し、国民党は共産党との対日共闘を決定している(第二次国共合作)。
広田内閣後に組閣した林銑十郎内閣は、経済協力による対中関係緩和を目指してはいた。その方針も1937年6月4日の倒閣で十分に行えず、次の近衛文麿内閣でも有効的な手段は打てない。対中政策が定まらない状況で、日中対立を決定的とする事件が発生する。
同年7月7日、北京郊外の盧溝橋近辺にて、夜間演習中の清水中隊が何者かに発砲された。銃撃はその後も散発的に続き、これを中国軍の仕業と判断した第3大隊は、翌日に宛平県城を攻撃。8日午後には中国との撤退交渉が始まるが9日から戦闘が再開され、中国軍は城内から撤退する。
この「盧溝橋事件」と呼ばれる衝突を起こした銃撃の犯人は、今も不明だ。しかし日本陸軍は中国軍の犯行と見なし、在留邦人保護を名目として本土から三個師団、朝鮮半島と満州から合計一個師団と二個旅団の派遣を決定する。
石原莞爾らは、対ソ準備の優先を名目に早期解決を望んでいた。しかし中国問題の一挙解決を目論む拡大派の勢いに飲まれ、近衛内閣も陸軍の派兵を認めざるを得ない。7月11日には中国への政府声明を発表し、現地部隊の撤退と日本側への陳謝などが19日までに実現されない場合は武力行使も辞さない、とする。日本の強硬姿勢に蒋介石は7月17日に徹底抗戦を示し、日中間で武力衝突が多発することになる。
25日には北京郊外の廊坊で小競り合いが起こり、翌日には北京に入城中の日本陸軍部隊が中国軍に銃撃を加えられた。エスカレートする衝突に近衛内閣は増援の早期派兵を決め、北京周辺の戦闘は激化の一途を辿っていく。戦火はまだ華北に限定されていたが、日中全面戦争は避けられないものとなりつつあった。
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