推古天皇以前と、それ以降

 32年にわたる欽明天皇の御世のあと、30代天皇として即位したのが敏達天皇だ。敏達朝は14年続いたが、次の用明天皇はわずか2年で崩御してしまった。その次の天皇が、推古天皇である。

日本の古代史を考えるとき、「推古以前と以降」という言葉が使われることがある。その意味は、『日本書紀』に記された推古天皇以降の事蹟が史実とみなして間違いない、というものだ。したがって、現在に伝えられる天皇家の歴史も、推古天皇の御世(593~628年)からが信頼でき、それ以前は疑う点が多いとされる。

 そんな推古天皇は女性天皇である。「14代仲哀天皇の妃である神功皇后は、摂政ではなく天皇として即位していた」や「22代清寧天皇の崩御後、履中天皇の孫(皇女説もあり)である飯豊青皇女が政務をとった」という説もあるが、通説では日本史上最初の女帝だとされている。だが推古天皇の即位には謎がある。それは聖徳太子の存在だ。

 かつては紙幣の肖像にも採用され、日本でもっとも知られた偉人の一人といっても過言ではない聖徳太子。「10人が一斉に話した言葉を同時に聞き分けた」「馬に乗って天空を駆けまわった」「未来を予測することができた」など超人的な伝説が残り、政治的には「十七条憲法」や「冠位十二階」を制定し、遣隋使を派遣するといった大事業を実行したことでも知られている。

 だが、そんな優れた才能の持ち主であるにもかかわらず、太子は天皇にならず推古天皇のかたわらで摂政として手腕を振るったとされる。これについて、「太子はまだ若かったので、中継ぎとして推古天皇が即位し、いずれは天皇になる予定だった」「推古天皇を傀儡とし、自らは実質的な執政者の地位を選んだ」などといわれている。

 これらの考え方も決して誤りだとはいえない。しかし、当時のようすや太子の立場を詳しく知ると、それ以外の理由も見えてくるのだ。

 厩戸皇子の即位をはばんだライバルの存在

  まず、太子の実像をみてみよう。聖徳太子というのは諡号であり、本名は厩戸皇子もしくは厩戸王。父は用明天皇、母は欽明天皇の皇女である穴穂部間人皇女で、太子が天皇にふさわしい血筋を持つことには間違いはない。

生年は574年。「厩戸」という名の由来は、穴穂部間人皇女が「馬小屋の前で出産したから」ともいわれるが、皇后ともあろうお方がそんなところで皇子を産むはずはない。生誕地近辺の地名「厩戸」からという説もあり、こちらの方が信憑性は高い。

推古天皇が即位したとき、聖徳太子は満年齢で19歳。たしかに国家の長として若いという感は否めない。ただ若さが理由であれば、「摂政」という天皇に代わって政務を行うという重要な地位に就くのもおかしい。「推古傀儡説」ともなれば、なおさらだ。さらに、もしも太子が摂政でもなかったとすれば、いまに伝えられる数々の事業もすべて否定されてしまうことになる。

推古天皇の先代である32代崇峻天皇の後継者を選ぶとき、太子にはライバルが存在した。一人は敏達天皇の皇子・押坂彦人皇子であり、もう一人は推古天皇の皇子・竹田皇子だ。彦人皇子の母は広姫といい、広姫の父は皇族で姉は継体天皇の后である。

したがって、彦人皇子も太子とそん色のない血統といえる。しかも太子よりも年長であるため、推古天皇の先代である崇峻天皇が亡くなったとき、次の天皇に推されてもおかしくはない。だが彦人皇子には、天皇になれない決定的な理由があった。それは、蘇我の血を引いていないことだ。

 天皇の決定権を持っていた蘇我馬子

  33代推古天皇から系譜をさかのぼると、32代崇峻天皇、31代用明天皇、30代敏達天皇、29代欽明天皇となる。敏達天皇は欽明天皇の皇子だが、用明天皇も同帝の皇子である。さらに崇峻天皇も欽明天皇の皇子にあたる。つまり30代から32代の天皇は、生母こそ異なるものの異母兄弟となる。

敏達天皇の母は28代宣化天皇の娘・石姫、用明天皇の母は堅塩姫、崇峻天皇の母親は小姉君。堅塩姫、小姉君は馬子の妹で、皇女である石姫だけが蘇我と縁がない。そして、当時の天皇は即位順に厳密な決まりがなく、適した皇族であれば皇位の継承は可能だった。ただし、即位には群臣の推挙が必要とされていた。つまり用明天皇から推古天皇までは、蘇我馬子の力によって即位を果たしたということが考えられるのである。


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