定時先生!第38話 初任なんだから
本編目次
第1話 ブラックなんでしょ
遠藤は口を開けたまま、北沢を見つめていた。数拍の間の後、北沢がいつもと変わらぬ明るい調子で続けた。
「ごめん、急に変なこと言って。効率的にやるのは間違いなく良いことだよな。俺、今日も早めに帰ろうかな。と言っても定時1時間ぐらい過ぎてるけど」
思考停止状態の遠藤だったが、素早くアルコールを手指にすりこむ北沢の手元を眺めながら、徐々に我に返っていく。何か言葉をかけねばと、考えを巡らせたが浮かばない。思案するうち、北沢はトイレを去ってしまった。扉が閉まる音で、遠藤の思考は、自省に移った。校内唯一の同期である北沢の苦悩を知らずに、能天気に話していた自分への羞恥。
急いで職員室に戻ると、北沢は自席にいた。鞄を取り出し、帰る準備をしている。時刻は、17時35分。
その時だった。
「北沢、遠藤。ちょっといいか?」
市川だ。職員室前方の自席に座り、初任者二人を呼んでいる。隣に西田も立っている。遠藤は反射的に返事をして、市川の元へ向かう。その途中、北沢を見やる。返事をせずやや俯くその姿に、遠藤は不穏を覚えた。
遠藤が市川の席の前に着くと、ようやく北沢は立ち上がり、遅れて遠藤の隣に来た。市川は二人が揃ったのを確認し、要件を話した。
「明日の午後、体育館でPTA主催の地域講演会あるだろ。今からその準備でパイプ椅子の位置をバミるから、手伝ってくれ」
「バミる?」
「床に目印のテープを貼ること」
遠藤の疑問には西田が答えた。遠藤は、恐る恐る視線だけを隣に立つ北沢へ向けた。遠くを見るような感情の無い目で、市川と西田を見つめている。
市川が補足する。
「感染症対策でパイプ椅子の間隔も最大限で取らないといけないから、あらかじめバミ」
「いや、帰ります」
北沢が遮った。目を丸くする市川。
「なんか予定あるのか?」
「いや、定時過ぎてますんで」
場が凍りつく。
「…なあ、北沢よ。初任なんだから。そういう」
「定時過ぎてますんで。失礼します」
北沢は自席に戻り、鞄を手に取ると、足早に職員室を後にした。残された3人は、呆気に取られている。
「すみません。様子見てきます」
しばし遅れ、遠藤が後を追う。頭の中は真っ白だ。北沢も同じだろうか。廊下の窓から捉えた北沢の姿は、既に職員玄関の外にあった。遠藤は、上履きのまま玄関を出た。
「北沢くん」
呼び止めたものの、立ち止まったまま振り向かぬ背中にかけるべき気の利いた言葉など、持ち合わせていない。安い言葉がついて出た。
「…大丈夫…?」
「…前と逆の立場だね」
言われ、思い出した。職員トイレで、遠藤の口から不安がため息になって溢れ出たあの日。
ー中島先生が生徒の間で何て呼ばれてるか知ってる?ー
心配してくれた北沢に、気丈にふるまったあの日のやりとり。
ー定時先生だってさー
逡巡の末、ようやく見出した言葉を、遠藤が呟く。
「…すぐには、中島先生みたいにはいかないよ。少しずつ近付いていけば良いんじゃないかな…」
薄暗い夕刻のしじまが遠藤と北沢を包む。二人の間のよく手入れされた花壇で、マリーゴールドが揺れている。背を向ける北沢の表情は、伺い知れない。
「…おかしいだろ…」
沈黙を、北沢が破った。
「…え?」
「何で定時で帰ったらダメなんだよ!!初任だからって!中島先生は良いのかよ!おかしいだろ!」
小さくなっていき、やがて角を曲がり視界から消えた背中を、遠藤はもう、見送るしかなかった。かつての北沢の言葉が反響する。
ーまるで将棋のコマだね。初任は辛いね。まったくー