見出し画像

「ホンモノとは」をめぐって|スポンジ・自動車・マーガリン

アニメ「スポンジ・ボブ」をキッカケにあれこれ考えがめぐりめぐって…。「ホンモノ」に対して「ニセモノ」があるわけですが、「ニセモノ」が出てきたせいで、これまでのものが「ホンモノ」の地位を得る、という言い方もできる。というか「ニセモノ」も確たる地位を獲得すると新たな「ホンモノ」になりえたりもする。さらにいえば「ベツモノ」が勝手に「ニセモノ」と見なされている場合もあるだろう。

以下、「ホンモノとは」をめぐって思いついたことをグズグズなるままに書き出してみました。



スポンジ・ボブのモデルは「スポンジ」

親子ともども楽しめるアメリカ・テレビアニメ界の至宝「スポンジ・ボブ」。その主人公スポンジボブ・スクエアパンツはまさに見た目もスポンジです。

登場する主な人物(生物?)はというと、たとえば次のとおり。

スポンジ・ボブ →スポンジ
イカルド →タコ
パトリック →ヒトデ
カーニ →カニ

海の底にある「ビキニタウン」が舞台なため、ほとんどの登場人物は海の生き物です(例外的にリスのサンディも主要キャラとして登場)。

で、お恥ずかしい話ですが、わたくし海辺に生まれ海辺に育った生粋の海の男にもかかわらず、この主人公スポンジボブが海綿動物の一種=スポンジであるということ、そして、そもそも自分の脳内でスポンジだと思っていたものは、その海綿動物を模した人造のスポンジ=「合成スポンジ」のことだったことを知りました。いまさらですが。。

ウィキ先生曰く「本来は水生生物の海綿動物、特に加工して入浴用などに用いられるモクヨクカイメンおよびその加工品のことである。天然の海綿加工品を模して合成樹脂などで作られた人造のスポンジがある」とのこと。

海綿動物としてのスポンジは、その多孔質ゆえに重宝したそう(図1)。

画像2

図1 天然スポンジ(Wikipediaより)

そうかそうなのかぁ。

スポンジをめぐるこのややこしいカンジ。そもそも人造のスポンジ「合成スポンジ」が台頭したことから、スポンジは本来なんら遠慮することなく、ただ単にスポンジであったのに、その頭に「天然」とつけて「天然スポンジ」と呼ばないと区別できなくなったということ。

こういう、あとからできたものの影響で、前からあったものが新しく命名されることを「レトロニム」というらしいです。

ホンモノかニセモノかを問われる必要がなかったものが、後からでてきたものの影響によってホンモノになる。ホンモノはニセモノの登場によってホンモノの地位を得るということ。この歴史はまことにもって興味深いものがあります。


ホンモノの「たわし」

スポンジボブの体が(ズボンも)四角なことから勝手に思っていたのは、まさに「スポンジたわし」。「たわし」の頭に「スポンジ」をつけているということは、当然にそれ以外の「たわし」があるわけで、思いつくままに書けば。。。

亀の子たわし:ヤシの繊維
シュロたわし:シュロの繊維
ヘチマたわし:ヘチマの実
金属たわし:鉄、ステンレスなど
スポンジたわし:発砲ポリウレタン
アクリルたわし:アクリル毛糸  などなど

古くから藁や縄をまるめて「たわし」にしていたそうで、上記のようないろいろな材料を「たわし」に代用することで、より高い性能を獲得してきたのだそう。「たわし」については、亀の子束子西尾商店のサイトが詳しく楽しいです。

さて、代用というと戦時下の代用品みたいに、仕方なく消極的に違うものを代わりに用いる=代用している風に受け取ってしまいますが、むしろ積極的な代用もあるわけです。まぁ、当たり前といえば当たり前ですが。

ちなみに「スポンジたわし」で有名なのはキクロンのロングセラー商品「キクロンA」(図2)。

画像1

図2 キクロンA

ちょっと歴史的に有名な某殺虫剤を連想してしまうネーミングがあれですが、このたわし、1960年に生まれた「たわしの革命児」だそう。

キクロン創業の地である和歌山はシュロの名産地。それゆえ「シュロたわし」は地場産業として各社でつくられていたわけで、それら商品と一線を画す新商品開発をめざしていました。

創業者・児玉勲がたまたま見た「ナイロン不織布」がきっかけとなり、これを「スポンジ」と貼り合わせることを着想。その貼り合わせ方法に苦労して誕生させたのが「キクロンA」なのでした。

ただ、この新商品もシュロたわしと比べ価格が3倍。売上に苦戦します。地道な営業活動が実って社会的認知を得ることに成功しました。その成功譚をなす一挿話に商品パッケージのイラストがあります。それがあの「異国婦人」。「売り上げを3倍にするイラストを描く自信がある」という絵描きに任せたら本当に売れに売れたのだそう。

シュロたわしという「ホンモノ」に対し、代用品ともいえる「キクロンA」が対抗し得たのはパッケージに付された「異国婦人」のイラストだったといいます。高い値段に納得し、従来品とは違う価値が受容されるために「異国婦人」が必要だった。ちょっとカングリー精神を発揮すると、そこには日本人にとって圧倒的な影響力を発揮してきた〈舶来〉の魔力をかぎ取らざるをえません。

バターとマーガリン

「シュロたわし」と「スポンジたわし」の話をしてて連想するのは、ミサワホーム創業者・三澤千代治が好んで例に出したマーガリンの話です(*1)。三澤はプレハブ住宅の将来像を語る際、マーガリンとバターの関係について言及しました。

現在、日常生活で用いられており、重宝されているものに、もともとは、ほとんどまがい物としか見られないものとして出発したものが多い。マーガリンがそうである。かつて、マーガリンは代用バターであり、パンにマーガリンを塗って食べるのは、家計に余裕がない証拠のようにみられていた。
(三澤千代治『本物志向』講談社、1992)

そもそも、マーガリンは高価なバターの代用品として登場したのだそう。その誕生は1869年のフランスにまで遡るといいます。

当時のフランスはナポレオン一世の甥、ナポレオン三世の治世でした。折しも、隣国プロシアとの戦争でバターが大変欠乏し、困っていました。そこでナポレオン三世がバターの代用品を懸賞募集したところ、見事に選ばれたのがメージュ・ムーリェという科学者が考案した、牛脂のやわらかい部分と牛乳を混ぜ、冷やし固めてバター様にしたものだったのです。これが、マーガリンの原型です。
(「マーガリン誕生秘話」雪印メグミルク)

日本でも「人造バター」として販売され、1952年に「マーガリン」と改名。そして市民権を得ていきます。

日本に入ってきたのは、明治の中頃。誕生からそう長い年月は経っていませんね。名前はマーガリンではなく「人造バター」と呼ばれていたようです(今も辞書を引くとそう出ています) 。戦後の復興期を経て高度成長期を迎えると、マーガリンの需要は大きく膨らみます。ソフトタイプのマーガリンの登場(1968年におなじみの「ネオソフト」が発売されました)も大きな要因となりました。
(「マーガリン誕生秘話」雪印メグミルク)

なお、少し前までむしろマーガリンのほうが健康に良いとも言われていました。近年になってマーガリンに含まれるトランス脂肪酸が問題視されてきました。例のごとく科学的な見解とそうでないものが入り乱れている状況。すでにメーカー各社もさまざまな対策を施していて、この話は冷静かつ客観的な判断が必要です。

たとえば以下はマーガリン工業会の見解。

ちなみに、このマーガリンにも従来のマーガリンと「合成」マーガリンがあるそうで話がややこしいです。もっというと、マーガリン類にはマーガリンとファットスプレッドがあって、主に油脂含有率によって区別されているそう。油脂含有率80%以上がマーガリンで、80%未満がファットスプレッドと呼ばれるため、日本でマーガリンとして販売されているものの多くはファットスプレッドなのだとか。ややこしや~。

さて、三澤千代治によるマーガリンの例え話は、当然にバターに木造在来工法、マーガリンにプレハブ工法が代入されます。

プレハブ住宅が出はじめたころは、安物で、在来工法の代替品のように扱われていたが、最近では品質、性能、価格、そしてキメ細かな生活提案などプレハブ住宅の人気は高く、プレハブ住宅をニセモノと評する人はまずいない。それは住宅というものが量から質、質から味へと変わってきたためであろう。
(三澤千代治『本物志向』講談社、1992)

プレハブ工法の住宅は、戦後の圧倒的な木材不足・価格高騰や大工・職人不足を与条件としつつ、当時喫緊課題だった住宅難解決への期待を託されました。とはいえ、そうした出自ゆえに、木造在来工法がホンモノであり、プレハブ工法は代用品、さらに言えばニセモノと見なされてきました。そしてプレハブ工法自体も、いかに木造在来工法と同じかを擬態してきた側面もあります。

プレハブ工法が木造在来工法を擬態してる段階を脱しよう。三澤は常々そう訴えたのでした。

馬車から自動車へ

この話と同様の構図を、三澤は化学繊維と天然繊維、さらには馬車と自動車の例えでも好んで説明しました。

自動車の歴史の当初のことだが、自動車はもともと馬車を真似てつくりはじめたものである。乗り物としては馬車しかない時代だから、馬車をイメージしたのも当然のことであろう。
当時の自動車のマーケティングは、いかに馬車に似た自動車をつくるかであり、馬車と同じような大きなホロをかけた。エンジンを馬の代わりにし、ボンネットは馬に似せ、その上に馬の耳に似せたマスコットを取り付けたりもした。
上流階級のステータスが馬車である以上、自動車は馬車に似ていなければならなかったのである。
(三澤千代治『本物志向』講談社、1992)

そんな自動車が馬車の真似を脱する機会が訪れます。そのキッカケになったのは「暖房」。

そうこうするうちに、鉄の自動車に暖房をつけた人が出たのである。なんと、ここで初めて人々は自動車を認めたのだ。馬車は冬にコートやマントを着て寒さに凍えながら乗らなければならない。ところが暖房つきの自動車ならばワイシャツ姿で部屋にいるのと同じ感覚で乗れる。
(三澤千代治『本物志向』講談社、1992)

「暖房」をキッカケに社会受容が進み、安全性や利便性、スピードといった性能がもたらす価値は、その後に付加されていったといいます。三澤は言います。「わたしがいいたいのは、この『馬車から自動車へ』を『在来工法から工業化住宅へ』におきかえたいということなのです」。

それゆえプレハブ住宅は在来工法を真似るのではなく、工業化住宅にとっての「暖房」の発見が課題であると考えたのです。

代用品、ニセモノとして登場した「合成スポンジ」は市民権を得ることで、その名から「合成」の二文字を欠落させることに成功しました。そして本来「スポンジ」だったホンモノの「スポンジ」は「天然スポンジ」と言っても、もはや「なんすかそれ」な状況に至っています。

いわばニセモノとホンモノの関係が反転している。というか反転というよりも「ホンモノ/ニセモノ」の対立自体が解消されて「(合成)スポンジ」だけが残ったというか。

たしかに、あのお笑いコンビ「ザブングル」が、「戦闘メカ・ザブングル」からとられた名称にもかかわらず、もはや富野ロボット・アニメ世代でない人からすれば、お笑いコンビ名でしかない。同時に「悔しいです!!」という加藤の元ネタが大映テレビドラマ「スクールウォーズ」に登場する名ゼリフであることもまた忘却されれば「ザブングルの加藤」がオリジナル、ホンモノになるでしょう。

三澤は言いました。

本物とは天然ではなく、「本当によく考えたもの」のことをいう。
(三澤千代治『本物志向』講談社、1992)

まだまだプレハブ住宅は「本物」たりえていないでしょう。それと同時に、では在来工法は「本物」なのかというと、実はそれも違うでしょう。なぜなら、在来工法は文明開化後にこれまた伝統工法に対して代用品として形成されたものである上、さらに1980年前後に徹底して改良と合理化が進められ今に至っているからです。

プレハブ住宅と同様に、在来工法もまた、未だ「本物」たりえていない。そう言えなくもありません。

ただ、在来工法は「本物」だと暗黙の了解として見なされているのもまた事実。ここで「ホンモノ/ニセモノ」を区別しているのは、〈舶来〉とはまた異なる〈伝統〉の魔力だと思われます。明治以降につくられたものであるにもかかわらず、「在来」と名がつき、さらには〈伝統〉と感じられるなにかが在来工法にはあります。

ホンモノ・ニセモノ・つくりもの

「ホンモノ」か「ニセモノ」か。その境目はどこか。「これが本物なのかという問い」には、①社会的レベル、②科学的レベル、③認識論的レベルがあることを、磯貝友紀は「揺れ動く『真』と『贋』」(*2)のなかで指摘しています。

特にこの社会的レベルは、社会受容を大いに左右するがゆえに曲者であり、また、だからこそ重要だろう。そう思います。

磯貝いわく「真贋の境界線はその置かれた文脈によって、いつでも揺らぐ可能性を秘めているのである」と。そして「このように時代や文脈によって揺れ動く複雑な「真贋」概念を考えるとき、ひとつの足場を与えてくれるのが「コピー/複製」概念である」とも。

プレハブ住宅が在来工法の「コピー」である範囲においては、それはやはり「ニセモノ」でしょう。それゆえ、三澤千代治はプレハブ住宅が在来工法の「コピー」であることを脱するため「暖房」探しをプレハブ住宅メーカーの使命としました。「コピー」を脱する革新を得たとき、プレハブ住宅は「ホンモノ」の地位を勝ち取る。そう三澤は考えたのです。

一方で、佐治ゆかりは「本物・偽物・つくりもの」と題した本記事的にビンゴなタイトルの論考を記し、そのなかでホンモノでもニセモノでもない「つくりもの」について民俗学的な見地から言及しています(*3)。

「『つくりもの』は『本物』『偽物』という価値観では捉えられない、位相の異なる存在」と指摘し、またこうも言っています。

「つくりもの」を「つくる」という行為において三位一体であった「見立て」「趣向」「細工」という要素は、日本社会の変化の中で、互いの関係を微妙にずらしながらも引き継がれてきた。総体としての「つくりもの」はそのずれの上で、時々に姿や性質を変えながら存在し続けてきた。
(佐治ゆかり「本物・偽物・つくりもの」2001)

なるほど、「ホンモノ」と「ニセモノ」とは位相が違い、また、姿や性質を変えつつ存在してきた「つくりもの」。それは「ホンモノ」と「ニセモノ」という二項対立を混乱させ、また推し進める役割をも担ってきたということか。

「つくりもの」に対して、それを受容する人々の中に、ものとしての存在感や技術の高さを評価する気持ちと同時に、畏怖もしくは軽侮の念といった心の動きがあったことは、充分に考えられることである。
(佐治ゆかり「本物・偽物・つくりもの」2001)

そういえば、戦後日本の住まいを下支えしてきた「新建材」もまた、「つくりもの」の一種として「ものとしての存在感や技術の高さを評価する気持ち」と「畏怖もしくは軽侮の念といった心の動き」が入り乱れる歴史だったように思います。木目プリントは〈舶来〉〈伝統〉がまざりあい、そして「あこがれ」と「さげすみ」という両義的な感覚が宿るものだったのかもしれません。

そう思うと以前書いた下記のnoteも、そうした観点からバージョンアップできそう。

「つくりもの」がもつ両義的な性格。「スポンジ・ボブ」の原型となった原作者ステファン・ヒーレンバーグのコミックは『The Intertidal Zone』というタイトルでした。日本語でいう「潮間帯」。つまりは、満潮時には海面下になるけれど、干潮時には干出するような場所のこと。ここでもまた両義的な性格がカギになっています。

そういえば、ヒーレンバーグが主人公スポンジ・ボブのキャラクターデザインを決定した際、キッチンの四角いスポンジを想定したのだそう。要は、海の中の話ゆえに海綿動物が主人公なのだけれども、その姿は既にキッチン用に整形された天然スポンジ、つまりは「ホンモノ」か「ニセモノ」かを問わない(問えない?)「つくりもの」だったということ。

「つくりもの」は「ホンモノ」と「ニセモノ」の両極をのらりくらりと往還する。そうすることで社会への受容を喚起し、また社会を変容させてきたのかもしれません。



1)三澤千代治『本物志向』講談社、1992年
2)磯貝友紀ほか「揺れ動く『真』と『贋』」、西野嘉章編『真贋のはざま―デュシャンから遺伝子まで』、東京大学総合研究博物館、2001年
3)佐治ゆかり「本物・偽物・つくりもの」、西野嘉章編『真贋のはざま―デュシャンから遺伝子まで』、同上

この記事が参加している募集

サポートは資料収集費用として、今後より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。スキ、コメント、フォローがいただけることも日々の励みになっております。ありがとうございます。