見出し画像

プロローグ:限界を感じる朝

また頭痛がする。

優子は目覚まし時計の音を止めながら、こめかみをさすった。数時間しか眠れていない。昨夜も遅くまで資料作りをしていたせいだろう。パソコンの青い光に目が痛くなるまで打ち込んでいた企画書も、まだ完璧じゃない。

「もう6時...」

体が重い。喉の奥が痛い。これは風邪の前触れかもしれない。でも、休むなんて選択肢はない。シングルマザーとして11歳の息子を育てながら、フルタイムで働く生活に、休養なんて贅沢は許されない。

優子は重たい体を引きずるように布団から這い出した。洗面所の鏡に映る顔が、まるで他人のよう。くすんだ肌に、隠しきれないクマ。「もう40代も半ば近いんだもの、こんなものよ」と自分に言い聞かせる。

化粧をする手が震える。最近、こんな日が増えた。

「あぁ、洗濯物がたまってる...」

脱衣所に山積みになった洗濯物を見て、優子は小さく溜息をつく。土曜日はいつも残業で、日曜日は疲れて寝てしまう。気がつけば、家事は後回しにされ続けている。

慌てて洗濯機を回し、朝食の準備にかかる。冷蔵庫を開けると、また中身が少ない。給料日まであと1週間。今月も財布の中身と相談しながらのやりくりが続く。

「翔太の塾代も払わないと...」

考えごとをしながら味噌汁を作っていると、鍋から吹きこぼれた。

「あっ、熱っ!」

右手の甲が赤くなる。でも、包帯を巻いている時間もない。時計は既に6時30分を指している。

今日のスケジュールが頭の中でぐるぐると回る。
9時からの会議。午後3時の息子の授業参観。夜までかかりそうな企画書の修正...。

考えただけで息が詰まりそうになる。最近、この感覚が増えている。
毎日がただ過ぎていくだけ。夢も希望も、どこかに置き忘れてきたみたい。

本当は...。
本当は、もっと違う生き方があるんじゃないだろうか。

「でも、今さら何を」
優子は自分の甘い考えを打ち消すように首を振った。

シングルマザーに、選択肢なんてない。
毎日を必死で生きるだけで精一杯。
夢を見ている場合じゃない。

そう自分に言い聞かせる一方で、心の奥底では別の声が囁いている。

このままでいいの?
こんな毎日...本当に幸せなの?

「ママ、おはよう」

考え込んでいた優子の耳に、キッチンに入ってきた息子の声が届いた。
まだ少しまぶたの重そうな翔太の表情が、とても愛おしい。
でも同時に、申し訳なさで胸が締め付けられる。

「おはよう。朝ごはんすぐできるからね」

最近、翔太との時間も十分に取れていない。
休日も疲れて寝てしまうことが増えた。
宿題を見てあげる余裕もない。
「お母さんは仕事が忙しいから」という言葉で誤魔化し続けている。

本当はもっと息子と向き合いたい。
塾の送り迎えくらい、自分でしてあげたい。
土日は一緒に出かけたい。
夜ご飯は、ちゃんとした手作りのおかずを作ってあげたい。

「翔太、今日は授業参観に行くからね」

「え...、でも、ママ、無理しなくていいよ。仕事があるんでしょ?」

11歳の息子が、気を遣う言葉を口にする。
その優しさが、優子の胸を刺す。

子供に気を遣わせてしまう自分。
こんな母親で、本当にいいのだろうか。

「大丈夫、仕事は調整してあるから」
笑顔で答えながら、優子は胸の奥に広がる後ろめたさを感じていた。

この後、会社に電話をして、午後は早退させてもらうつもり。
でも、今でさえ企画書が間に合っていないのに、さらに時間が減ってしまう。
夜中まで作業することになるのは目に見えている。

「行ってきます!」

息子を見送り、優子は玄関に座り込んだ。
まだ朝の7時前だというのに、もう疲れている。

鏡に映る自分の顔が、どこか虚ろに見える。
いつからだろう。
こんな風に、自分を見失ってしまったのは。

昔は、もっと夢があった。
「こんな仕事がしたい」
「こんな生活を送りたい」
そんな想いを、胸に抱いていた気がする。

今の生活は、きっと、その頃の自分が想像していた未来とは違うはず。
でも――。

「時間がない」
「余裕がない」
「今の生活を変える余力なんてない」

いつものように、言い訳が頭の中を巡る。
そう、これは言い訳だと、どこかで分かっている。
本当は、ただ怖いだけなのかもしれない。

変化が怖い。
失敗が怖い。
今の生活さえも失ってしまうことが、怖い。

会社の机に置いてある手帳には、びっしりとスケジュールが詰まっている。
残業、家事、育児。
目の前のことをこなすので精一杯で、先のことを考える余裕さえない。

それでも、心の奥底では、漠然とした不安が渦巻いている。

このまま、歳を重ねていって、本当にいいのだろうか。
息子が成長していく中で、こんな生活を続けていけるのだろうか。
老後の準備は? 息子の教育費は?

考えれば考えるほど、不安は膨らんでいく。
でも、その不安から目を背けることでしか、今を生きていけない。

「行かなきゃ...」

優子は深いため息をつきながら立ち上がった。
今日も、目の前のことを必死でこなしていくしかない。

変えたいのに、変えられない。
その板挟みの中で、優子の心は少しずつ、静かに、確実に、疲弊していっていた。

いいなと思ったら応援しよう!