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[note46]中間試験の採点現場から

中間試験の採点現場から

定期試験が終わり、私達教師は採点に追われる数日となる。新学習指導要領の本格実施に合わせて、担当する[公共]では、用語の暗記ではなく、用語を使い、思考しながら答える問題を意識的に増やしてきた。ところが、採点していると、どうもこちらの意図と生徒の思考が一致していないのではないかと感じる。[公共]では、「公共空間において、私たちはどう生きていくか?」という大きなテーマを軸に据えて、実際の社会現象などをトピックとして扱っている。当然、そこには因果関係を求めるものや個々の現象を抽象的にまとめるもの、逆に抽象的な現象から具体化を求めるものなど試行錯誤しながら作問したつもりである。しかし、生徒の解答を見ていると、行間や因果関係を飛ばしていたり、設問に対する理解が不足しているため、本来問われていることとは違う解答が散見される。具体例として以下のような問題を出題した。それに対する生徒の解答例も併せて記載する。
[実際に出題した問題の例(一部省略して掲載)]
・(問)古代ギリシャの衆愚政の問題点を指摘しなさい。
 (解)政治的に無知な大衆が政治に参加するようになったため。

一見、大衆と政治の関係に絡む問題点は指摘しているようであるが、一部の無知で無責任な大衆が政治参加することによって、どのような問題が生じるのかと言った具体的な記述が書かれていない。

・(問)現代ヨーロッパでポピュリズム(大衆迎合主義的な政治思想や政治体制)を掲げる政党が台頭した背景として考えられることを説明しなさい。
(解)既存のエリート(エスタブリッシュメント)と自らを分離させ、彼らを敵対勢力として攻撃し、大衆迎合的な政策を提示することによって、多くの支持を得ることとなったため。

こちらもポピュリズムの特徴については書かれているが、なぜ、そうした考え方が台頭してきたのかという社会的背景については述べられていない。

プリントから思考が広がっていない!?

勤務校の地歴公民科の授業は基本的にプリントを利用している。特に複数の教員が担当する場合、共通項としての授業プリントは内容のすり合わせの意味でも効果的に働くことも多い。改めて授業のプリントを見てみると衆愚政についてもポピュリズムについても解説レベルでは上記のようなことが説明あるいは穴埋めとして掲載されている。テストでは、そした知識をベースとして解答することを求めている(もちろん、従業内では何らかの形で具体と抽象の往復は行っている)わけだが、結果的には、プリントに書かれている内容をテストで再現しているケースが多い。すなわち、一生懸命、マーカーを引き、プリントの内容を暗記し、それを再現したという形だ。つまり生徒の思考はプリントで止まってしまっているということ??これは生徒というよりは教師に責任があると感じている。

プリント、使いにくくない!?

前述した通り、授業プリントは重要事項を整理し、効率的に生徒に伝える上では有効な面があることは否めない(もしかしたら、その前提すら違っているのかもしれないが一先ず、そのように考えることとする)。生徒からすればプリントを憶えておけば良いという発想になるのも致し方ない面がある。

しかし、基本的にはオリジナルのプリントは作成者のイメージや好みの構成で作られている。その際に、生徒が理解しやすいように工夫していることは言うまでもないが、あくまでもプリントは作成者の頭の中に存在するものではないだろうか?実際に私の作成したプリントを他の教師が使おうとすれば使いにくいだろうし、私も他の教師が作成したプリントは正直使いにくい。生徒にとっては言わずもがな…である。その辺りに気付いていないかも知れないが、オリジナルプリントの完成度が高ければ高い程、生徒が知識を自分の頭で知識を再構成するという営みから遠ざかるという皮肉な結果を招いてしまうことがあるのではないか。少し抽象的な言い方になるが授業プリントは生徒の思考の余白が少なくするものとなっているということだ。繰り返しになるが授業プリント自体を全否定するものではなく1つの問題提起として理解してもらえるとありがたい。

知識が使えるものとなっていない現実

授業プリントは素材であり、それを利用しながら実際の事象と絡め、生徒間の意見交換や協働作業を絡めるのが自分なりのスタイルになっている。ただ現実には、生徒にとって知識は使えるものになっていない。授業内容とテスト内容の連動性の問題もあるだろうが、それは別の機会に考えようと思う。

プリント授業をどうアレンジするか?

こうなると、プリントベースの授業の在り方自体を見直す必要があるのかも知れない。プリントを作ることが目的化し、「授業で何を求めるか」という目的に対する思考が不足しているともいえる。また、プリントは過不足なく知識を網羅することを目指すため、どうしても量が過剰になり、授業時間との兼ね合いから全てを扱うことは難しくなるケースも出てくる。そのため、今年は生徒が自学で学ぶことができると判断した項目については、授業では扱わず、生徒に任せるという形を取っている。それでも知識のベースとなる部分は必要であることは間違いない…。

教科書か…

もしかしたら、プリント作成に依存するあまり、教科書を蔑ろにしてきたのではないだろうか。日常的に教科書を上手に活用されている先生方からすれば、当然のことかも知れないが、その一方で「教科書を使わず、詳細な知識を効率的に生徒に伝えるプリントでの授業こそが腕の見せ所」といった信仰も少なからず存在するし、自分自身もそうした面がある。それにより生徒達の「プリント信仰」を生み出すという循環が存在する。教科書の基本知識をベースとして、派生させながら、知識を深めていくというのが1つの手段になるかも知れない。教科書は確かに「受験」という観点から考えると、知識量的に物足りないと感じる時があるが、教科書の記述や行間に生まれる生徒達の「なぜ?」「どのように?」と言った生徒の思考が動く余白があるように思う。この辺りは、また他の先生とも議論したいところであるが、余白があるからこそ生徒は思考し、自分なりに知識を再構成することは確かだと感じている。こうしたことは、一人ではなく、色々な先生の対話の中で答えを探っていけたらいい。教科書も授業プリントも目的のための有効な手段として活用する方法を考えるのが、この冬の課題になりそうである。




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